Members Column メンバーズコラム

“TACHIBAフリー”で、世の中を変える

保田充彦 (株式会社ズームス)  Vol.158

保田充彦

こんにちは。株式会社ズームスの保田です。KNSには比較的古くから在籍しているのですが、年間2回参加の会員継続資格を毎年かろうじてクリアできている「不良会員」なので(すみません!)、はじめての方も多いと思います。よろしくお願いします。7年前の創業以来、科学技術分野のコンテンツの制作と、情報・データの可視化に取り組んでいます。オフィスはポートアイランドの医療産業都市の一角にあります。

【立場という怪物】
現在の仕事を始める前は、某大手重機械メーカーでエンジニアとして働いていました。携わった開発の仕事は楽しく、日々得られる新しい知識や経験は刺激的でした。海外企業との共同開発など、やりがいのある仕事も色々とやらせてもらいました。一方で、会社員として働く中で、違和感をおぼえることもありました。そのひとつが、会社(組織)では常に「立場を踏まえた行動」が優先されると言うことです。「この会社の社員なのだから、会社の利益に反することをしてはいけない」、「自分が所属する部署の目標を最優先に行動しなければいけない」という暗黙の制約です。会社の発展や社会貢献につながる前向きな考えに基づくものなら良いのですが、往々にしてもっとレベルの低い動機、「こんなことを言ったら上司に怒られる」とか「これをやったら出世できない」と言うような行動原理が、知らぬ間に幅を利かせるようになってしまうのです。

人は誰しも社会的に認められたいという欲求を持っています。本来、社会とは社会全体、つまり世の中を指すはずですが、組織に属すると自分では気がつかないうちに、社会=組織と言う狭い視野になり、その結果、上のような思考パターンに陥ってしまいます。そうやって、「ムラ社会」の一員となってしまうのです。さらに恐ろしいのは、上司や経営者、顧客に直接指示を受けたわけでもないのに、「自分の立場上、こう行動しなければならない」と勝手に思い込んでしまうことです。それはまるで「立場という怪物」に支配されてしまったゾンビ状態で、傍から見ればかわいそう、あるいは滑稽にさえ見えるのですが、自身を見失った自分だけは気づくことがない、と言う哀れな状況です。

【跳ばなければ、飛べない】
そんなことはわかっていても、自分の立場を越えた(と自分が思っているだけかもしれませんが)発言や行動は、文字通り「地に足が着いた」状態を壊すことに思えて不安になるし、勇気がいることです。毎回「清水の舞台から飛び降りる」わけにもいきません。

でも、組織というのはもともと人が作ったものです。それに人が縛られるって言うのはおかしくないでしょうか。組織という入れ物が先にあって、そこで人が働くのではなく、自立した人々によるダイナミックな活動が結果として組織として見えている。それが本来の姿だと思うのです。
つまり、そのような組織に依った「立場」なるものは、さして確固たるものではないし、そんな儚いものを宝物のように守ることは馬鹿げています。慣れ親しんだ居場所を離れるのは一瞬怖いものですが、勇気を出して地面を蹴ってみれば、もしかしたら空を飛べるかもしれない。今まで自分に見えなかった、もっと広い世界があるかもしれない。逆に、跳ばなければ、けっして飛ぶことはできない。そう思うのです。たしか、こんな格言もありました。「片足を地面につけたまま、泳ぎ方を学ぶことはできない。」

【自分の才能を使わないのは罪】
僕はキリスト教徒ではありませんが、プロテスタントの教会に通っていたことがあります。率直に言うと、聖書に書いてあることが真実だとは思えなかったのですが、牧師さんの言葉からは多くのヒントをもらいました。そのひとつが、「与えられた才能を活かさないことは罪である」というキリストの教えです。
僕はこれを、自分の不得手なことをするよりも得意なことをする方が、より世の中の役に立つことができる。自分が得意なことを使わないのは、関わっている人々への裏切りである、と解釈しました。この教え、すごく納得しませんか。(ちなみに、欧米人、特に米国人がどんな場所でも自分の考えをはっきり述べ、自分中心に行動するのは、この考えが根本にあるからではないかと思っています。)

自分の才能を活かすことを第一の行動原理にするならば、立場などはどうでも良い、とまでは言えなくても、少なくともそんなに重要なものではなくなるはずです。

【「TACHIBAフリー」な生き方を】
立場に固執しない、『TACHIBAフリー』な生き方」は、けっして自分勝手な生き方をすることではありません。個人個人が、立場よりも自分に与えられた才能を活かすことを優先する生き方です。与えられた才能を活かそうとする自立した人々が、お互いに協力しあう場。それが僕の考える理想の組織です。そして、そこでは「立場」と言う言葉は不要です。一人ひとりが「TACHIBAフリー」になれたら、世の中は絶対に良くなる。そう思います。

さて、ようやくKNSの話です。僕は「酒を楽しむ才能」が不足しているので、今までKNSの基本である飲み会にあまり参加していませんが(すみません!)、KNSが他の様々な会合と違っていて魅力的なのは、まさにこの「TACHIBAフリー」な空気があることだと思います。KNSは、産学官民、学生から老練な方までさまざまな「立場」の人が対等に話せる場所です。これからも、良い意味で立場を忘れ、自分の才能を活かし、他人の才能を発見できる場所であってほしい。「権威はあるが入れ物だけの組織」になるのではなく、常に新陳代謝するダイナミックな活動の姿そのものであってほしい。混沌とした中(もちろん飲み会をイメージしています!)から、常に何か新しいものが生まれ続ける場所であってほしい、と思うのです。

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