Members Column メンバーズコラム
来年こそはホノルルマラソンで復活・・したいな!
山本英夫 (京都市産業観光局 新産業振興室) Vol.292
今年を締めくくる年内最後のコラムに指名されてしまいました(もとい,していただきました)京都市産業観光局の山本です。初めてのコラムということで何を書こうかな?,まだ時間があるしゆっくり考えたらええか・・・なんて思っているうちに仕事と宴会と家事に追われ、なんと締め切りを過ぎてしまっていたことに気がつき脂汗が・・・。ヤバイ!(本来の意味のヤバイですよ)、会員になったばかりの分際でこの失態は人間性を疑われるぞ、早く入稿しなければ・・・、と焦る中で今回は私という人間を少しでもわかっていただけたら、と思い自己紹介も兼ねて少し私のプライベートなことを書かせていただきます。
会員になったときの自己紹介でも書かせていただきましたが、私は2013年4月から2年間、京都市産業観光局から大阪市経済戦略局に出向していました。それまで20数年間ほぼ健康保険、介護保険、生活保護と社会福祉分野の仕事に携わっていた私は仕事に限界を感じて(というより公務員という仕事自体に)いました。
もともと、公務員になりたかったわけでもなく、紆余曲折の結果(この間の話は長くなるので、次回「役所広司を目指して、役者修行編」(笑)で書かせていただきます・・・次回があればですが)、なんとなく辞めるきっかけがなく続けていたという感じ(いや、少なくとも給料以上の仕事はしてきたと自負はありますよ)だったので、次の職場を最後に辞めようかなと思っていました。
よし、それなら全く経験したことがない職場がいいなと思っていた矢先に大阪市経済戦略局への派遣募集が出ていたので応募したことが大阪市への出向のきっかけでした。結果は合格。一度も経済系の職場で働いたことがない私が何故?後で聞いたら職場が南港のATCであまりに交通の便が悪く遠いため、応募者が私1人しかいなかったというオチ・・・。
ところが、大阪市での2年間は本当に楽しく、やりがいのある仕事ができ、多くの人にも出会ったことで市役所職員として京都の産業振興のお手伝いをしていく仕事を続けたいと思うようになりました。私の人生の一つの転機になりました。
その一番大きな出会いは、仕事でMEBIC扇町の担当として出会った所長の堂野さんですね。堂野さんとは仕事でがっつりと付き合わせてもらいましたが、最近はプライベートでもマラソンで一緒に走りに行ったりするマラソン仲間です。今年の5月には洞爺湖マラソン、11月には福知山マラソンも一緒に走りました。走るたびにタイムが早くなる堂野さん、走るたびに苦痛にもがきタイムが遅くなる私。いかん!このままではずるずるとメタボ体型に朽ち果て、フルマラソンの完走すらできなくなってしまう!よし、昔初めてフルマラソンを完走したときの感動を思い出し、もう一度あのころの体に戻そう!今年最後のコラムを書かせてもらったのがいい機会、書きながら、来年こそは頑張って練習しようと心に誓う私。
ということでやっとタイトルの本題です。ホノルルマラソン、ミーハーな初心者ランナーからがっつり系ランーまで、あらゆるランナー層に人気があるマラソン大会がこれではないでしょうか。実は私がマラソンを始めたきっかけがホノルルマラソンなんです。10kmやハーフマラソンも含めて、生まれて初めて参加したマラソン大会がホノルルマラソン、しかも応援のために行ったので、走る気など全くなかったのです。そう、ちょうど20年前の1995年、第23回大会のときです。
話を続ける前に、ちょっとここで、ホノルルマラソンについて。
ホノルルマラソンは、毎年、12月第2日曜日にハワイ・オアフ島ホノルル市で開催されるフルマラソン(今は10kmのメイヤーズウォーク部門もあります)で1973年に参加者167人から始まり、今年2015年12月で43回目となります。第12回大会からは日本航空(JAL)の協賛が始まり、現在の正式大会名は「JALホノルルマラソン」。コースは、アラモアナ公園をスタート、ダウンタウンからアラモアナに戻り、その後ダイヤモンドヘッドからカラニアナオレ・ハイウェイを通ってハワイカイを折り返し、カピオラニ公園でゴールします。
オフィシャルランニングパートナー(完走Tシャツはこのメーカーが提供)が以前は、ナイキだったため、メチャいい素材とデザインのTシャツで人気がありましたが、2009年に撤退、一時は国内だったのマラソン大会でもらえるような感じのTシャツだったんですが昨年からはアンダーアーマーがパートナーになっているのでどうでしょうか(私は2011年以降散参加してないので・・・)。
では、話の続きです。
じゃあ、何故走ったの?ということですが・・・。
私と一緒に飲んだことがある人なら酒の席でいつも話してますので御存知かもしれませんが、当時付き合い始めた彼女がどうしても一生に一回、ホノルルマラソンを走りたいから応援で一緒に来て欲しい!と頼まれたことがきっかけでした(今から思えば彼女からのプロポーズだったのかなぁ、なんて自惚れが・・・)。
ところが、ハワイに着いてからマラソンの前々日に彼女が捻挫。彼女から自分の代わりに走って欲しいと涙ながらに懇願されたら・・・男として断るわけにはいきません、急遽、現地で靴、ウェアを買って彼女のゼッケンをつけて走ることに(日本のように本人チェックもないし、ゼッケンの色も同じなので)!。
とはいうものの、野球はしてきましたが、マラソンなど走ったこともなく距離感や走るペースが全くわからないうえに朝8時を過ぎると晴れの日ならメチャ暑い(最近はマラソンの時期は大抵曇りか雨が多いんですが)。前日、練習を少ししただけで当日を迎え、まだ、夜が明けない午前5時に盛大な花火とともに3万人のランナーとともにスタート!。感動と興奮、しかもスタートラインを越えるまで10分近くかかったことで焦りも加わり、ランナーの間をジグザグに走り抜け、ペース無視の走りを展開。折り返しのハイウェイで膝にきてペースががくんと落ち、35km過ぎでハイウェイを降りて、たぶん37kmぐらいのカハラの公園近くのコースで脱水症状でしょう、風呂場で上せたような感じで目眩がして歩くことすらできなくなり倒れました。
しばらく動くこともできず、やっとの思いで歩き出し(もう走る気力も体力もなし)、38kmから40kmにかけてダイヤモンドヘッドの坂を越えました(ここは往路で10-12km、復路は38-40kmで通るんですが、往路では日の出の景色がメチャ綺麗で、復路は最後の坂を上りきったスポットから見る景色が最高なんです)。
残り2kmは気力だけでしたが、残り500mはカピオラ二公園何の直線コースとなり、コース両側にボランティアのJALのCA(今はわかりませんが、当時はCAがいっぱい制服で出迎えてくれたんですよ!)に沿道の応援や見物の人たちの延々と続く声援とハイタッチ、感動のあまりゴールした瞬間に泣きました。彼女も自分の代わりとなって私が頑張って完走したことに感動して泣いてくれました。ああ、なんて可愛いんんだろう、この女性を幸せにしてあげたい!そう、思った瞬間でした(この話の流れで行くと、このときの彼女が今の私の嫁さん・・・なら惚気美談になるんですが、安心してください!違いますよ!。ホノルルマラソンから帰って程なく別れました(笑))。
私がホノルルマラソンにハマり出したのはこれからです(マラソンにではなく、ホノルルマラソンという大会に)。当時、仕事も嫌でストレスがたまっていたこともあり、ジムに通っていましたが、週末に少し走るようになりました。そしてホノルルマラソンが近づくと練習を始め、翌年は一人でホノルルマラソンに参加しました。
写真はそのときのものです。彼女の代わりに走った前年は4時間25分だったので(彼女のゼッケンで走っているので完走証は残っていませんが)タイムは遅くなりましたが、歩くことなく、自分のペースで完走できたので私にとっての始めてのフルマラソン完走です。
2011年まで述べ12回ホノルルマラソンに参加しましたが、私にとってのホノルルマラソンはお酒と美味しい料理(昔はワイキキには美味しい店はなかったんですが、最近は美味しい店がわんさかある)で増えた体重をマラソンで元に戻して帰るパターンなのでタイムは二の次です(2005年の4時間25分が最高ですから)が、コースの景色、大会に参加する人、応援の人の雰囲気が本当に気持ちいいんです。
最近では日本の大会でも多く見られるようになりましたが、沿道で応援の人たちがボランティアで飴やチョコ等の差し入れをしてくれたり、エアサロのサービスをしてくれたり、先にゴールしたランナーが最後の難関のダイヤモンドヘッドのところまで戻ってランナーを励ましあったり、本当にあったかいんです(いや、ハワイなので熱いんです)。小学生から参加できるので、小学生や中学生のような子供が親と離れて泣きそうな顔で走ってたりするときに声をかけながらちょっと一緒に走ってあげたら「はいっ!頑張る」と返事しながら泣き出したり(いや、怖がって泣きだすんやないですよ、感動してですから)・・・。
今では、国内でも頻繁に走るようになりましたが、前述のように堂野さんの進化が著しいのでそれに刺激を受けて、もう一度、ゴールして泣けるようなマラソンが出来るように練習したいと思います。そして、仕事や家庭の事情で2011年以降参加できていないホノルルマラソンに来年こそは復活参加したいと思います。どうですか、みなさん、来年は一緒にホノルルマラソンに参加しませんか?エントリーをお待ちしてます!