Members Column メンバーズコラム

コロナ禍の中の一年

中村勝彦 (東海支部世話人)  Vol.540

中村勝彦

今年最後のコラム執筆者となりました。今年早々から中国のコロナ発生が報道され、この一年間を振り返るとまさにその対応に追われていたというのが、正直な感想です。こうやってコラムを依頼されて、ちょっと
立ち止まるというか、振り返る時間を取るといろいろな思いが沸き上がります。また、東日本大震災からあと三か月弱で10年を迎えます。
そんな時のことや不安への対処などつれづれ書いてみることとします。

■見えない不安との闘い
見えないものと戦うという経験はそうそうないものですが、私は何度かそういう体験があります。前職の銀行には、31年8カ月勤めました。その間にも見えないものと戦うといった時期が何度かありました。

1. 漠然とした不安 (その1)
 大阪外国語大学(阪大に吸収)のモンゴル語学科という1学年たった
15人しかいない学科を卒業して、当時は長期信用銀行の一角だった日債銀という銀行に入りました。大阪支店で大阪市内はじめ、堺、東大阪、神戸、姫路等々の製造業を担当し、機械油の匂いのする工場群を走り回りました。東京に転勤し、公共セクターを担当。国鉄が民営化され、
上場したばかりのJRや清算業務を行う国鉄清算事業団、公社公団等を担当し、国の財政や仕組みを勉強。その後、不動産、ゼネコンを担当し、まさに金融のダイナミックさや醍醐味を味わう仕事をやってきました。
池袋支店で課長となり、さらに大きな仕事が出来るのではと思った矢先、
1998年12月13日(金)15時 銀行が国有化(実質経営破綻)されるとの発表がなされました。支店の15周年を祝いキャンペーンを展開、当日は、最終日とあって記念定期を設定するお客様であふれ、支店始まって以来の来店客数を記録した日でもありました。
知らせを受けたのは、支店長にかかって来た一本の電話。静かに電話を置いた支店長は「36条」(特別公的管理の条項)と書いたメモを見せました。すぐに店頭に走り、Quickから流れるニュースを止め、その後、隣の証券会社で情報を知った顧客が押し寄せ、対応に追われました。
今でも鮮明に覚えているほど、その後様々な体験をしました。
安定と言われた銀行に入り、よもやの破綻…。賞与も0が決定…これからどうなるのだろう…、生活はどうする…、漠然と不安を感じ、この時期ちょっと自暴自棄となりました。転職活動をしたのもこの時期でした。

2. 漠然とした不安 (その2)
 不安なまま、国の管理下から、株式がソフトバンク、オリックス、東京海上(三社連合)に売却されることが決定され、新しい銀行づくりが始まりました。その少し前、「営業畑の人間を本部へ」との思惑で、急遽、業務統括部という本部に配属となりました。そこでは、今まで経験したことのない仕事をすることになりました。
株主から派遣された人たちとの攻防、毎日、支店、本部からやってくる
段ボール3箱分の書類の決裁、新しい銀行(直後あおぞら銀行という
名前を決めました。)のルール作り等々、まさしく毎日戦場そのもので、何回も具合を悪くし、よく点滴を打っていました。
この銀行はどうなるのだろうと辞めていく同僚や先輩を見て、不安が増大していった時期でもありました。

3. 漠然とした不安 (その3)
 本部から古巣の不動産、ゼネコン担当の課長で復帰、勝手知る世界でようやくのびのびと仕事ができると思った矢先、株主が3社連合から
サーベラスというアメリカのファンド会社に代わりました。
ソフトバンク他3社連合が、株式を全額ファンドに売却したのです。
サーベラスはギリシャ神話の「地獄の番犬ケルベロス」の英語読みで、その名の通り派遣される外国人は多種多様。多くは語れませんが、様々なことがありました。行内の英語使用が増えたのもこのころです。
銀行業務は多岐にわたるわけですが、その分野、分野でのスペシャリストがいます。私は、不動産、ゼネコンに強かったわけですが、このころ、
そのスペシャリストばかり、25名が集められた部が組織されました。
私もなぜかその中に入れられ、言い渡されたことは「全国どこへ行っても良いので、一人年間5億円の利益が出る仕事を取ってくること」との指令でした。皆、顔を見渡すばかりでしたが、外資特有の考え方が当たり前となっており「NOと言っても、目標を達成できなくても、fire(解雇)される」ということになることも、皆、理解していたことから従わざるを得ませんでした。
この時もできるのだろうかというより、どうせ辞めるのならば、全国各地を回ってやろうと、南は徳之島から北は北海道旭川まで、案件を求めて47都道府県中、46都道府県を飛び回りました。この時期、全国にたくさんの友人が出来ました。結果的には、この友人たちが、たくさんの商材を提供してくれて、何とか辞めずに乗り切ることができましたが、
移動の電車や飛行機に乗っている最中、本当に不安になりました。押しつぶされるような、いつも何かに圧力を受けている…そんな気持ちが続いていました。

4. 差し迫る不安 (その4)
 外資特有の組織に3年余り属し、もうやめようと決断したころ、仙台支店長に任命されました。リーマンショックがあった直後の話です。
東北での縁については、前回のコラムでも書きましたが、不思議な縁が次々とつながっていきました。
東日本大震災から10年が経とうとしています。震災前後に東北六県を担当していたことは、私の人生観も変えました。
震災以来、ずっと応援している岩手大学、花巻市、久慈市、そして福島。やはりあの時に東北とかかわったということが原点になっています。
震災直後、各地の惨状を目の当たりにして、果たして、世の中はどうなるのだろうか、立ち直れるのか、本当に不安になりました。
もう一つは、今も福島を苦しめている原発の放射能問題。
当日夜に出た避難指示は福島第一原発から10キロ圏内、翌日夕方に20キロ圏内に変わり、4日後に20~30キロ圏内、米軍は日本在住の自国民に80キロ圏内は避難の指示が出たと、情報が錯綜していました。
私も部下を預かる身、原発から仙台は95キロ…。
どう対応すべきかを東京に尋ねてみても、判断が得られず、また、現に、当時は外資であったことから、本部の外国人から、在仙台の外国人を支店で東北以外に避難させてくれと頼まれるありさまで、不安は最高潮になりました。
殿(しんがり)で最後は一人で支店を守らなければと命を懸けるような心境になりました。不安で仕方がない毎日でした…。

5. その後の不安 (その5)
 支店網の少ない銀行に入り、地方支店は一店舗勤務すると後は首都圏の支店にいるというパターンの方が多いにもかかわらず、銀行時代のラスト9年は、なぜか地方支店でした。仙台支店の後、梅田支店長、
そして名古屋支店長と転勤、奇しくも3店舗共に移転・開店を指揮するといった、不思議な出来事にもめぐり合いました。本当に驚きでした。
移転・開店をやるときに必ず支店長が言われるのは、「移転して成功するのか、しないのか」という問いと、移転が決まると「支店を一つにまとめて、無事に移転して、早い時期に成績を上げろ」との指令です。
この質問や指令に対する答えは、もちろん決まっていますが、この時に不安がなかったかと言えば、嘘になります。成功するかしないか、だめになるかならないか…。態度は堂々としていなければいけませんが、内心はひやひやでした。

■現在の不安
このコロナ禍の中、誰もが不安に思っておられることと思います。
私も、私自身、そしてたくさんの職員の健康問題、発生した場合の対処、公告、その影響等々、不安に思わない日は一日たりともなく、
予防をよびかける毎日です。
そのほかにも不安はあります。銀行とは全く関係ないご縁で、今の
地方金融機関の理事長になりました。経営内容を見れば見るほど不安があり、毎日いろいろなことを考えます。「良く引き受けたなぁ…」という方や「なんで引き受けたの」とかご質問を受けることがあります。引き受けたのは、経営内容はともかく、若手の変革を求める声と期待、そしてやる気でした。
不安はいっぱいあります。また、コロナ禍で経済の見通しが立たない中、経営のかじ取りは本当に不安です。また、金融機関特有かもしれませんが、お取引先様の業績が見通せないことも不安です。一生懸命にコロナ関連融資を実行し、企業の資金繰り支援に対応してきました。
きちんと企業と向き合いながら、お貸出をしていますが、何年か後に返済が始まった時に、取引先企業の業績はどうなっているのかが、大変気になり不安です。また、金融行政の変化(急激な政策変更や地銀再編
など)や地域の動静(人口減少や産業の衰退) は、とても不安なところ
があります。
FBでも、毎日のように吐露していますが、地方金融機関は、本当に
大変な時期でもあります。その分、不安も大きく、時折自分自身が揺れることがあります。

■不安への自分なりの対処法
あまり人に不安を吐露したことがないので、この場を借りて、ここまでいろいろな場面の不安について書き連ねてきました…。
不安は誰にでもあります。私もまだまだたくさんあります。ただ言えることは、今までいろいろな不安が沸き起こってきたのですが、なんとか不思議にそれを乗り越えてきたという経験があり、今の不安もその力や経験を信じれば乗り切れるのかなと思っています。経験豊富なKNSの皆さんには釈迦に説法ですが、不安になった時の自分なりの対処法を書いてみます。

◎道が決まったら前だけ見る。過去の失敗は思い返さない。
   過去を振り返っても取り戻せないし、不安になるので前だけを見ることかなと思います。
◎信頼できる人に話す。
   こんな時も出来るだけたくさんの信頼できる人やその道の達人と知り合う努力をし、信頼関係を結ぶ努力をしています。
そしてそのような方々とよく話すようにしています。
こんな時だからなおさらです。本当に人の縁はどこでつながるかわかりません。妙なものです。沢山の信頼できる人と話すと不安は無くなります。
◎回りに気を遣いすぎない
   たくさんのことに気を遣いすぎると自分が疲れてしまい、
不安が増します。周りの評価は気にせず突き進むことです。
◎突き詰めない。良く仕事し、よく遊ぶ
   不安があるときは。気分転換です。私は興味があればどこへでも行き、時間を忘れて思い切り遊びます。物事にケセラセラ(どうにかなる…)で臨むことも大切かと思います。

■縁尋機妙 多逢聖因
この言葉が大好きです。「良い縁からさらに良い縁を尋ねて発展していく様は誠に妙なるものがある」、「良い人に交わっていると、気づかないうちに良い結果に恵まれる」との意味です。
KNSやINSの方々はもちろんのこと、MEBIC、MOBIOの方々、
東京で25年前に始めた勉強会仲間(200名)、震災時の仙台支店長仲間、
東北各地、特に岩手、福島の方々、名古屋財界の方々、新潟、三重、
高山、舞鶴、他 さらには、豊橋と様々な地域で面識をいただき、ご相談させてもらい、それが様々な不安の解消に繋がっています。
自分が不安や揺れている時には、進んで会を開催し、本来の自分を取り戻すことをやってきました。

人脈や人の縁は、自分が年齢を重ねるごとに少なくなり、そのうち生かすことができなくなります。(東京で作っている会は、肩書がなくなっても、お互い会いましょうという主旨の会です。)

お互いが良かったなと思えるように、今のうちに信頼できる方々に
信頼できる方を繋いでいこうと考えています。

■来年に向けて
私は富士山が大好きです。いつもどっしりしています。
その時々の風雪に耐えて、皆に感動を与えています。
誰もが不安な世の中になりました。こんな時にこそ、どっしりと腰を
据えて、自分を振り返り、自信を取り戻し、そして前に進むということが必要な気がします。不安は誰にもあります。
今回は、自戒も込めて、今までの不安と向き合って、文章にまとめてみました。

本年も大変お世話になりました。来年こそは、良い年にしたいですね。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

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