Members Column メンバーズコラム

専門家の終わりもしくは卒業

岡崎 哲三 (技術士(情報工学部門)/中小企業診断士)  Vol.816

0. はじめに

はじめまして。岡崎哲三と申します。私は医療機器を開発している京都の企業に勤めており、情報系の技術者・専門家として30年近く仕事をしてきました。

KNSには、2024年12月21日に開催された第80回定例会 in 兵庫県立大学 神戸商科キャンパスに、授業の一環として参加させていただいたのが最初でした。

今回は、私が専門家になったきっかけと、その専門家がいま終わろうとしている話、そしてそれを「終わり」ではなく「卒業」と呼びたい、という話を書かせてください。

1. はじまりは、一台のポケットコンピュータ

私が専門家への第一歩を踏み出したのは、奈良高専の電気工学科に進学したときでした。

授業で、CASIOのVX-3というプログラム電卓を使いました。手のひらに載る小さな機械ですが、BASICが動き、自分でプログラムを作ることができます。私はこれでゲームを作ることにはまってしまいました。一人で黙々と、迷路を進んでいくようなゲームを作っていたのです。

画面は狭く、白黒で、キャラクターを一つ描画するのも一苦労でした。それなのに、不思議と面白くて熱中しました。それなりに分厚いマニュアルを読み込み、あれこれ試しながらプログラムを組んでいたことを、いまでもよく覚えています。

調べて、作って、試す。

いま思えば、これが私の専門家としての第一歩でした。そしてこの三つの動詞は、その後の30年余り、私の仕事のやり方そのものであり続けました。

2. 数日前、AGIの時代が宣言された

このコラムを書いている数日前、2026年9月5日に、OpenAIが次世代AIモデル「GPT-6 Astra」を発表しました。このモデルは自分でPCを操作し、3Dソフトなどを使うことができるといいます。OpenAIの社長であるグレッグ・ブロックマン氏は、世界はいまや汎用人工知能(AGI)の時代に入った、と語りました。

その発表を眺めながら、私は高専生の頃のVX-3を思い出していました。

あの頃、私が数週間かけて調べ、作り、試していたことは、いまや生成AIに頼めば1分以内に終わります。分厚いマニュアルを読み込む必要も、試行錯誤の夜も要りません。そして、私が長年かけて身につけてきた多くの専門知識や経験を、生成AIはあっさりとやってのけるようになってきました。

ソフトウェアは、誰でも作れるものになりつつある。専門家は、不要になりつつある。

これは悲観でも誇張でもなく、日々の仕事の中で私が実感していることです。

3. 電卓は、もう検算されない

私は今も技術士として、あとしばらくは残るであろう専門家の知見を活かしていくつもりです。

ただ、こうも思っています。かつて電卓が表計算ソフトに置き換わったとき、はじめのうちは、みな電卓で検算していたはずです。しかし今、表計算の結果をわざわざ電卓で叩き直している人は、もうほとんどいません。専門家の知見も、おそらく同じ道をたどるのだろう、と。

私自身、生成AIで簡単なソフトウェアを作ってもらうことが増えました。最初の頃は中身をある程度読んでいましたが、最近はもう全部は読んでいません。電卓で検算しなくなったのと同じことを、私はすでにしているのです。

私がプログラミングを通じて得てきた専門家としての知識や経験はいずれ使われなくなり、私の専門家としての道のりは終わりが見えてきてしまったようです。

4. 経営学で見つけた「残るもの」

生成AIが広まりつつあった頃、ぼんやりとした将来の不安などから2023年に兵庫県立大学大学院の経営専門職専攻へ入り、2025年に修了して中小企業診断士となりました。

2年間学んで、私なりにたどり着いた結論があります。現状、AIに代替されにくいのは次の三つだろう、というものです。

・意思決定をし、責任を取る能力

・将来のビジョンを創造する能力

・共感を持って他者と協調し、ともに成長する能力

理由は「人間らしいから」だけではありません。「人間が持つべきだ」と社会が決めているから、という側面が大きいと思います。責任がその典型です。AIは今のところ資産を持たないので賠償責任を負えませんし、私たちはAIを責任主体だとみなしていません。技術の問題ではなく、合意の問題なのです。

これらは、知識を提供する専門家の仕事というより、経営者が担う役割です。経営学の知識そのものはAIも持っていますが、それを使って決め、責任を負う立場は、当分は人間に残るだろうと思っています。

終わりが見えてきた専門家としての道のりを、ただ終わらせるのではなく「卒業」にしたい。とはいえ、組織を率いるようなマネジメントがしたいわけではありません。何かの一部として働く専門家ではなく、小さくても自分で決め、自分で責任を負う個人事業主として、もう少し自由なことをしてみたい。経営学を学んだのは、そのためだったのだと今は思っています。

5. とはいえ、現実は

……と、格好のいいことを書きましたが。

正直に申し上げると、今の私は生成AIを学び、活用するのに精一杯です。エージェントだ、AGIだと騒いでいるうちに、半年前の理解がもう古い。学び直したはずの経営学より、来週使うツールの調べ物をしている時間のほうが長い。卒業証書は手にしたのに、まだ校門を出られずにいる、というのが実感です。

6. ゴンドラの猫にならないために

それでもひとつ、強く戒めにしている実験があります。心理学者リチャード・ヘルドとアラン・ハインが行った「ゴンドラ猫の実験」です。

生まれてから暗闇で育てた仔猫を2匹一組にし、明るい場所で過ごすのは回転する装置の中にいる時間だけにします。一匹は床に足をつけて自力で歩き、もう一匹はゴンドラに乗せられ、歩く猫と連動して同じ空間をただ運ばれます。2匹が見ている景色や視覚的な刺激はまったく同じです。しかし、その後にテストをすると、自分の足で歩いた猫は障害物を避けて正常に行動できるのに対し、ゴンドラに乗せられて景色を眺めていただけの猫は、目の前に崖や障害物があっても足を踏み外してぶつかってしまいました。空間を正しく認識し、体を適切に動かす力は、自分の足を動かし、床を踏みしめる能動的な経験を通してしか育たなかったのです。

生成AIに問いを投げ、数秒で整った答えや完成したコードをもらう体験は、まさにあのゴンドラに乗せられている状態に似ています。同じ景色を見て、知ったような気になっていても、途中の試行錯誤という「自分の足で歩く経験」をスキップし続ければ、人間側の思考力や足腰は衰えていくしかありません。

プログラミングという下流の作業に限って言えば、私はすでにゴンドラに乗っているのだと思います。VX-3の前で夢中になっていた「プログラムを組む」という作業は、いまや生成AIが1分でこなしてしまいます。

ただ、自分の足で歩くのをやめたわけではありません。いま私が調べ、作り、試しているのは、生成AIによるプログラミングを組み込んだ新しい業務プロセスそのものです。どこをAIに任せ、どこで人が確かめ、全体をどう回すのか。変わったのは、調べて、作って、試す対象のほうなのです。

対象がコードから業務プロセスへ、さらには事業の仕組みづくりへと移っても、自らの足で「調べて、作って、試す」というサイクルそのものは手放してはいけない。それを手放してしまった瞬間、私はAIを使う側ではなく、ただゴンドラに乗せられて運ばれるだけの存在になってしまうのだと、自分に言い聞かせています。

7. おわりに

将来のことは不安です。しかし、大学に通った2年間は、純粋に面白い経験でした。会社に言われて行ったのではなく、自分で選んだ。だからこそ自分の物語になり、次のビジョンが立てやすくなったのだと思います。30年余り前、誰に言われたわけでもなくVX-3のマニュアルを開いたときと、たぶん同じことです。

AGIやロボットの時代にも、それらを「使う立場」として活動できるようにしていきたい。それが今の私の目標です。

はじめてKNSにお邪魔したあの日から、まだ2年足らずです。まだまだ勉強中の身ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

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