Members Column メンバーズコラム

築130年の民家が体験してきた地震

小野寺純治 (岩手大学)  Vol.66

小野寺純治

 昨日(5月28日)のINS総会&春季講演会は「震災から立ち上がろう!
岩手」をテーマに岩手大学で開催され、全国から180名の方が参加してくれ
た。KNSからはおなじみのメンバーに加え、フレッシュなメンバーも合わ
せ15名もの参加があった。多くの仲間が千キロも離れた大阪から岩手に集
ってくれる、非常にうれしく、心強い連帯を感じた。
 私は1951年9月生まれの59歳。岩手県内陸南部の町、金ヶ崎町で生まれ
育った。生家は400年ほど続く農家であり、私が生まれ育ち、現在も週末を
過ごす家は、1880年(明治12年)の建築で130年ほど経過している。この
金ヶ崎の我が家が体感した地震について記してみたい。

 我が家を造ったのは、私から数えて6代前の先祖で、幕末から明治にかけ
ての激動期に没落した家を兄弟3人が力を合わせ復興し、なんとか人並みの
暮らしが成り立つまでになった晩年に2年ほどかけて造ったといわれてい
る。家の基礎は突き固めた土台のうえに石を置いてその上に柱をのせ、屋根
は茅葺きであった。その後、屋根を瓦葺きに改修し、何回かの改修を繰り返
しているが、基本構造は当時のままである。
 我が家は1896年の明治三陸地震や1933年の昭和三陸地震に耐えてきてい
るが、私の記憶に鮮明にある最初の地震は1968年の十勝沖地震である。震
度5弱に見舞われた我が家の被害は、家の中の漆喰の壁が一部はがれ落ちた
ことと、飾り障子が細かく斜めにさけていたことぐらいであった。2度目の
記憶は、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震である。岩手県庁に勤務して
いた私は帰宅しようとエレベーターホールに出たとたん大きな揺れがあり、
思わず柱につかまったのを覚えている。我が家の揺れは震度5弱?4強と記
憶しており、十勝沖地震と同程度の被害であった。なお、この地震では仙台
市のブロック塀が多く倒れ、多くの人が犠牲になった。
 この後、しばらく平穏な時代が続き、我が家が震度4強以上に見舞われる
ことはなかった。2003年(平成15年)に私が勤務先を岩手県庁から岩手大
学に移すと地震もとたんに活発化してきた。同年5月26日に最初の試練が
待っていた。その時私は江刺市(現奥州市江刺区)で産学官連携の交流会に
出席していたが、震度5強の強烈な揺れに襲われ、江刺市役所の職員がNHK
の全国放送で地震の被害状況を述べているそのすぐ近くの居酒屋で放送を聴
いていた。我が家の被害も甚大で庭に壊れた屋根瓦が散乱していたほか、室
内も惨憺たる状況であった。仏間の襖は、写真のように平行四辺形になった
まま戻らず、地震の横揺れのすごさを見せつけているようであった。特にひ
どかったのは屋根瓦の破損であり、雨降りの度に雨漏りがする状況となった
ので、屋根と土台の傾きを補修する工事を何とか終え、少し落ち着いた2006
年6月14日に再度震度5強の強烈な揺れに見舞われた。岩手・宮城内陸地
震である。幸いにもこのときには屋根瓦も落ちず家の漆喰壁が一部はがれ落
ちただけであったが、土蔵の壁の一部が崩落してしまった。
 そして2011年3月11日14時46分からの東北地方太平洋沖地震の襲来で
ある。我が家は震度6弱の揺れに耐えながらも土台の一部がずれたためか、
鴨居の一部がずれ、またしても漆喰の一部がはがれ落ちた。しかし我が家に
更なる不幸が襲った。4月7日の震度6弱の余震である。この余震はこれま
で耐えていた箇所に大きなダメージを残していった。母屋や土蔵はこれまで
の被害と同程度の被害を残していったが、これまで地震の度に痛んできてい
たが使わないので放っておいた離れが、2度の震度6弱で床の間脇の壁が完
全に崩落してしまったのである。
 大学に奉職してからの9年間に震度5強以上の揺れを4度も体験してしま
った我が家をどのように修理すべきか、今後また大きな地震は来ないのか、
地震馴れした私が地震の度にダメージを蓄積する我が家の修理をどのように
すべきか悩むこの頃である。

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