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過疎という言葉が、研究員生活のきっかけ

美濃地研一 (三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社)  Vol.510

美濃地研一

 私の出身は、島根県です。島根県といっても、「行ったことがない」「出雲大社があるところ」「鳥取と島根がなんとなく似ていて、どっちがどっちがわからない」…というように、あまりイメージが湧かない、という方も多いのではないでしょうか。関西圏ではまだしも、関東圏ではそのように受け止められることが多いようです。私自身にしても、東北地方などで、あまり土地勘のない場所については、同じように思うこともあるので、お互い様といったところでしょうか。
 さて、島根県のことであまり知られていないことを一つお伝えしておこうと思います。私は50歳を超えたところくらいの年齢ですが、小学生の頃の社会科の教科書だったでしょうか、「過疎」という言葉とともに、廃屋になったかつての住居の写真が掲載されていたことを覚えています。確かそこには、島根県美濃郡匹見町(限:益田市)という文字があったように思います(うろ覚えのことなので正確ではないかもしれません)。

ちなみに、私の先祖は、江戸時代中期からその匹見町に暮らし、山林の恵みをベースとした暮らしを送っていたようです。江戸時代のことですので、今のような社会とは全く異なる構造でした。というのも、電気、ガス、ガソリンといったものはなく、したがって、家電製品や自動車といった、電力や化石燃料によって機能する機械の類はありませんでした。おおざっぱに言えば、自給自足が基本の生活で、エネルギー消費量だけを見れば、現代とはケタ違いの「エコな暮らし」をしていたということになります。とはいえ、江戸時代ですので、学問や知識の水準はそれなりに高く、ある意味、現代に近い社会が形成されていたともいえます。
話が横道にそれてしまいましたが、江戸時代(?明治初期)の日本には、江戸、京都、大坂、城下町を除けば、日本全国に同じような暮らしや社会・経済の姿が、存在していたと思われます。
私の先祖もそうした社会を前提として、山林から主な糧(かて)を得ていたようです。地理的には、平野部ではなく、中山間地であったため、平地が少なく、江戸時代の最大の産業である稲作には向いておらず、村の面積のほとんどを占める山林経営が主たる産業であったようです。現在は、国内林業は、非常に小さな産業規模となっていますが、当時は日本各地に山林を主力産業とする地域がありました。ところが、中国地方の山林経営は、いわゆる建築用の木材資源を供給する銘木産地とは、異なっていました。それに関連するのですが、「ヤマタノオロチ伝説」[1]をご存知の方は多いと思います。
1)http://furusato.sanin.jp/p/osusume/season/67/01/ わずか3分で学ぶ「ヤマタノオロチ伝説」
8つの顔を持つという大蛇(オロチ)は退治され、娘が救われるとともに、そこからは、剣が得られた、メデタシメデタシという話です。これは、中国山地の土壌には酸化鉄が多く含まれ、良質の砂鉄は得られたことを意味します。その良質の酸化鉄を得るために、現代でいえば、自然破壊とも言えるような、山を切り崩し、切り崩した土を水で流し、比重の違いを利用して、砂鉄を得る、「鉄穴(かんな)流し」という方法を使っていました。この産業プロセスを頭に入れると、伝説もより面白く理解できると思います。
またまた、横道にそれましたが、やっと本題です。このような形で島根県出雲地方には、江戸時代「たたら製鉄」という一大産業が存在しました。西洋式の近代製鉄とは異なり、高炉や石炭はありません。製鉄用の燃料として用いられていたのは、木炭です。鉄を得るために必要とされる木炭の量[2]は、一度の生産で12トン(森林面積にすると1ha)という資料もあります。
2)http://www.wakou-museum.gr.jp/spot2/ 「木炭(たたら炭)」(和鋼博物館)
同じように、私の先祖が住んでいた島根県西部の石見地方においても、森林資源が豊富な山間部においては、小規模な「たたら製鉄」が存在していたようです。要は、砂鉄を高温にするための燃料として、膨大な森林資源が必要であったということから、原材料の砂鉄と木炭を得るための山林が、地域の産業のあり方を決めたということになります。これにより、中国地方の山地はほとんどが木炭生産用となり、大規模山林地主が誕生し、島根県出雲地方では「だんさん」と呼ばれ、各種産業のオーナーとして、地域経済における重量な資本家となっています。
当時は、エネルギーも含めて、海外との輸出入に頼らない、究極の自給自足経済(地域循環共生圏:環境省が第5次環境基本計画でうたった地域のあり方)であったことがわかります。ある意味、コロナウイルスのような感染症に強い社会であったともいえると思います。
このように、森林資源、山林にエネルギー源としての経済価値があったのが、当時の社会であったと思います。ところが、明治維新後、富国強兵、殖産興業の政策の下、西洋式の近代産業化の波が日本全国を覆います。たたら製鉄は、生産性が低く、製鉄は西洋式の高炉法に置き換えられていきます。このため、中国地方の山林は、従来の販路を失い、変化への対応が迫られます。ところが、この危機は、人口増加、経済成長とともに、家庭用・業務用の木炭需要の拡大によって支えられ、山林経営、山村の収入源を維持することができました。第二次世界大戦時には、石油の輸入が途絶したことに伴い、木炭自動車(ガソリンに変わり、木炭を燃料とした)が存在しました。また、戦後、外貨不足によって石油の輸入がままならないときに、各家庭での炊事に必要な七輪の燃料として、木炭が大きな役割を果たした、という記録もあります。
次に、山林の経済価値が大きな危機を迎えたのは、1960年代ごろのエネルギー革命です。日本の経済成長に伴い、石油の輸入を本格化させ、重化学工業化を推進した時期です。山林は木炭としての価値を失いましたが、この時も、木炭用の山林には思わぬ方向から救世主が現れます。従来は、広葉樹を中心とする雑木林を形成する樹種は、製紙用原材料に向かないとされていましたが、製紙産業の技術が進展し、雑木もパルプとしての利用価値が発生し、山林の価値は維持されました。当時、皆伐した山林に、国の方針のもと、植樹したスギがいま伐採適齢期を迎えたまま、木材価格の低下、就業者の減少、山林地主の不在といった複合的な要因により、放置されているといった悲しい状態です。
このような経緯をたどり、1960年代の「パルプ景気」以降は、山林が新たな価値を見出せず、山村での暮らしは、現金収入の道が絶たれ、経済的に厳しい状態になりました。同時に、1963年(昭和38年)には、中国地方山間部をはじめとして各地が「38豪雪」に襲われ、島根県西部の山間部だけではありませんが、住民が都市部に流出する挙家離村が加速しました。
そのような状態を、過密ということばに対比して、「過疎」ということばを造語したのが、当時の島根県匹見町の町長と言われています。その結果、小学生の教科書でも、匹見町の廃屋が掲載されるということになりました。
言ってみれば、これが私の現在のシンクタンクでの研究員生活につながる原点です。「過疎」を何とかしたい、そういう仕事がしたい、というのが、バブル真っ盛りの30年前に、シンクタンクに入社した理由です。「地方創生」は、30年前からのライフワークというわけです。研究員人生を振り返り、その初志がどこまで達成されたかは、自分自身でも忸怩たる思いがありますが、関連する仕事を続けてこれたことには、クライアントをはじめ関係者のみなさまに感謝しております。これからも過疎を何とかしたい、地方創生を考えたい、という想いを持った方々とともに、研究員生活を続けていきたいと思います。私事に終始しましたが、これを機会に、島根県や山村にも興味を持っていただければと思います。先祖の住まい[3]が、島根県益田市で博物館のような公共施設になっておりますので、お近くに行かれる際は、ご覧いただけますと幸いです。
3)https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-725/ 「美濃地屋敷」(益田市の文化施設)

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