Members Column メンバーズコラム
改革なんて考えなかった私の働き方
久保 信一 (オフィスしのも) Vol.695
ついに60歳を迎えた昨年のこと。
「昔ならこれで定年。以後隠居生活。伊能忠敬のように生きてみたい。」
なんてことを考えてみたものの、現実ではそうはいかない。
金も名誉も暇もなく、現在もなお働き続けている。
加えて8年前にフリーランスになってからは残業も休日出勤も関係なくなった。
残業しようが休日出勤しようが平日に堂々と休もうが関係ない。
メリットとデメリットが交錯しているわけだが、会社員時代を振り返れば私の仕事はそんな休みも残業もお構いなしの一直線だった。
今の御時世なら改善命令がでそうで、働き方改革?
それって何?て感じだ。
私の世代なら他の多くの人も似たような働き方をしてきたと思う。
たぶん。
大学を卒業して最初に務めた会社は大手エアフィルタメーカーの子会社だった。
内容は新築建物のサブコンスタッフで竣工検査に必要な測定と資料の作成という技術系・理系の仕事だった。
ちなみに私は大阪芸術大学映像計画学科(現 映像学科)の出身で、ばりばりの文系出身者である。
竣工間近の建築現場というのは多種多様な検査が待ち構えていて現場には一種独特の緊張感がある。
とりわけ私は大手サブコンのサポート業務を担当していたので、赴いた建物が大型の高級ホテルや鉄道の駅舎、百貨店であったりと完成後は不特定多数が訪れる建築物が多かった。
こういう物件はとりわけ検査が厳しい。
このような商業施設は内装業者がデザインを優先しがちで設備が犠牲になることが少なくない。このため設計通りの風量、流量、騒音値が確保できない箇所も珍しくなかった。
畢竟、手直し工事が発生する。
手直し工事は昼間に職人さんが施工する。なのでその手直しの効果を測定するのは夜ということになる。
このため終電まで仕事をすることは日常茶飯事で家に帰るのは寝るためだけ。
週休6日制という時代だったものの現場状況では日曜日も関係ない。
というよりもうっかり休みを取ったりすると体調を崩す。風邪をひき熱を出すというようなこともあるのでオーバーワークは継続することが健康を保つ秘訣でもあった、と思う。
状況証拠から見て。
ところが私はもともとはクリエイティブな仕事を目指していた。
建築系の技術職は安定していていいけれど、資格が要ることも多くて芸大出身の身の上では諸条件がなかなか厳しい。
「これではいけない、目指していた夢ではない」
と考え4年経過した平成元年。転職することを決意した。
そして新しく始めた仕事は製品開発。
映像を目指していたはずの私がどうしてプロダクトなのかは脇においておくとして、ここもまた建築業界に負けず劣らずの労働環境だった。
出勤初日、社長と上司との3人の打ち合わせ。若干残業になった私に社長は言った。
「今日は遅なったけど、もう帰ってや。明日からは普通やから」
と。その翌日からは午前様も珍しくない忙しい毎日が始まった。
担当したプロダクトは業務用音響機器。犬のマークの音響メーカーが主たるお客さん。様々な製品を上司との二人三脚でデザイン、設計、試作、積算、量産と対応。体力が要ったが色んな知識と技術を身につけることができた。
昼間は設計とデザイン実務。
夜になって工場が終業すると工作機械を使って試作製作。その試作が承認されると量産段取りと品質チェックまで。
このバラエティに富んだ職務のごった煮は少人数の会社だったので仕方がなかった。
ある時、夜中の2時頃CADで作図をしていると突然電話が鳴った。
「こちら〇〇警察ですが、盗まれていたバイクが見つかりました。犯人も確保しましたので署までお越しいただけますか?」
この頃私はバイクで通勤をしていた。どうやら仕事に夢中になっている間にバイクが盗まれ、そして知らない間に犯人が逮捕されていた。そんな事件だった。
また同じような真夜中に犬のマークの担当者にFAXを送ったところ、即回答が返ってきてビックリしたこともあった。
お互いに超残業の連続であったことを知り強い連帯感が生まれた。
オーバーワークは大手も中小も変わらない時代だったのだろう。感覚が狂っていたのかもしれないけど。
結局まる3年勤めたここも諸事情で退職。でもそのときの上司は今でも私の大切な先輩で相談相手である。
3度目の転職先には23年間勤めた。
設計部に配属されるはずが研修途中で営業に回された。
「営業マンが足りんから、支社行ってくれ。2年間だけ。」
と社長にいわれて合計13年間営業をすることになった。
結局これが仕事の考え方に強いインパクトを与える大きな転換点になった。
従来、営業職だけはしたくないと思っていたのだが結果として「営業知らぬものは企画開発するべからず」という境地に達して今日に至っている。
会社員としての最後の10年間は製品企画の責任者。数人の部下も抱えながら新規分野での製品企画、販売戦略立案などを行いながら、国立大学の連携研究員も8年間兼務した。
これらの経験が今の製品開発と設計、販売支援業務に繋がっている、と思う。
もちろん巡り巡って映像の仕事もやっていてこれも面白い。
多くの人と出会い、知って、意見を交わして、そして教えていただいたことは、猛烈とまではいわないまでも時間を気にせず仕事をしてきた結果かもしれない。
これ、働き方改革なんていわれなかった時代だからこそ経験できた賜物ではないか。
かつての定年年齢を過ぎて今この時、そう強く感じている。