Members Column メンバーズコラム

松の梢に

神牧智子 (大阪府住宅まちづくり部住宅経営室)  Vol.304

神牧智子

KNSの皆さま こんにちは
わたしが初めてKNSコラムに投稿したとき、工場の多い地域にあった母の喫茶店のことを書きました。昼食時は工員さんで混み合い、昼下がりになると経営者の皆さんがぶらりと立ち寄り話をしていく、そんな店でした。
今回は、医療と福祉について家族を通じて感じた3年間を振り返り、1月に亡くなった母を思い出しながらコラムを綴ってみたいと思います。

■入院から意識が戻るまで
2012年の10月頃から胸が痛いと湿布を貼ってしのいでいた母が喀血をして救急搬送されたのはその年の12月半ばのこと。原因不明の肺出血で呼吸機能を維持するため人工呼吸器を挿管。カテーテル検査で顕著な出血部位を見いだせなかったことから血管炎を見込んで強力なステロイド投与と免疫抑制の治療を早期から展開したことにより一命をとりとめ、2週間後気管切開、ICUに1か月、意識が十分回復しないまま一般病棟へうつりました。徐々に鎮静が解けてくるなか、夢に見ていたのは母の故郷、丹波の住山八幡神社の松の木をふうふういいながら登り、上までのぼりきると息が楽になって病院にいるのに気付いたと、発声バルブをつけたときに話してくれました。

■転院の期限がせまる
母はこの間にすっかり不自由な身体になっていたので、リハビリの可能な施設への転院を希望しましたが、24時間の酸素の手当と難病の治療薬が必要なこともありなかなか受け入れ先がみつかりませんでした。
いくつか見たなかで、ホテルみたいでまったく病院らしくない、ある回復期リハビリテーション病院が受け入れ先に決まりました。ICUを出て2か月目の期限の直前にストレッチャーで転院。そこでの期限は5か月。このように、次々と「期限」なるものが厳しく追いかけてきて判断を迫ってくる、というのが、たいへんなプレッシャーでした。
母はここではたいへんよくリハビリに打ち込み、理学療法士・作業療法士のスタッフの方に支えられ、かなりの日常生活動作を取り戻すことができました。病院そのものの設計思想も道理にかなったもので、日常生活そのものの再現性にこだわりがあり、病院らしくないのはそのせいだとあとから気付きました。回復ぶりはめざましく作業療法士さんがその記録を学会に発表されたほどでした。ところが退院のめどがたとうとする頃、今度は父のがん再発。父が入院すると同時に「期限」が来て母は退院し、そのまま北摂にある病院が運営するショートステイ施設へ。ここでは父が手術を終え退院し、自宅の玄関の改修を完成させるまでお世話になりました。

■福祉資源の利用
病院から介護保険のショートステイ施設に行き、変わったのは同じ立場の人を含め、たくさんの人とコミュニケーションが充実していたことでした。ほかの利用者の方と混じって歌を歌ったり、クイズを解いたり、塗り絵をしたり。そうした活動の合間に交わされる会話や、支援者となるスタッフの言葉のやりとりからも些細な機微を感じていたのだろうと思います。人の輪には、ほんとうに、入ってみないとわからないものがあります。

■制度の利用
父の手術も無事終わり、受け入れ準備をすべて整え母の在宅生活がスタートしました。在宅酸素発生装置と酸素ボンベのほか電動ベッド、車いす、補高便座といった用具類を介護保険制度でまかないました。屋内の手すりは大工仕事が得意な父が母の動作をみながら、高さや向きを微調整していました。わたしは炊事くらいしか手伝うことはなく、父が献身的に母の介添えをし、母は自分でできることはやり、できないことは遠慮なく頼んでやってもらっていました。
ショートステイではレクリエーションを楽しんでいた母ですが、残念なことは、デイサービスのおためしで運悪く感染症から入院となったため、キーパーソンである父にこの後多くの人が交流する場への拒否感が強くなってしまったことです。このほかの訪問・通所サービスも理由を言って利用しようとはしませんでした。若い者が思うより、サービスの利用の敷居は父母らのような高齢者には高く、「使わなければ損」と利用をすすめたとしても「使うほど自分と社会にとって損」だと頑張ってしまう。また、ずっと商売の世界で生きてきたこともあり、何かをすすめる人はその人にとって得になることがあるからだという考え方の「くせ」が、サービス提供側との関係性を複雑にしてしまっているようでした。

■穏やかなときからおわりにむかう
とはいえ母はその後2年近くのときを穏やかに自宅で過ごすことができました。趣味の俳句もつくり、わたしの炊事の下ごしらえに手を貸してくれ、住民投票や選挙にも車いすで参加しました。しかし昨年の秋口から目を閉じている時間が増え、11月の終わり頃からせき込んで食事がとりづらい日が続いていました。そして1月のその日の夜、在宅酸素発生装置から警告音が鳴りやまず夜間でしたが装置を交換してもらい、血中酸素濃度がもとに戻るのを確認して父も就寝しましたが、夜明け前に声をかけても返事はなく主治医と救急車で病院に搬送するも再び目覚めることはありませんでした。

おそらく、母の体力などからいえば、私は幸いなほど長く、母との時間をともに過ごすことができました。
今は、もし住山八幡神社の松の梢の間に隠れて歌うミソサザイの声を聴いたら、それはきっとわたしの母だと思うことにしています。そのイメージは不思議に心が落ち着いて、自分を楽にするような気がするからです。

正直コラムを書き出すと、誰のためになるのかわからないような経験だと感じます。
もう終わってしまったことなのですから。
つまりは自分のために、書いているようなものなのでしょうか。

今はそうでも、まだわたしにはなすべきことがあり、できることがあると考えています。
それができるまでは、自分は最後の最後まで生きますよっと。
皆さま、棺桶まで、お付き合いくださいね。

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