Members Column メンバーズコラム

あれから17年

飯田勝康 (株式会社アイテック)  Vol.127

飯田勝康

 人それぞれの人生には色々な転機が有ると思う。私の人生にもいろいろな
ターニングポイントが有った。
 なかでも一番大きな転機は平成7年の年だった。1.17で記憶されている様
にドォーと遠くから地響きを感じ、突然ガタガタと家全体が大きく揺れて飛
び起きるや、「2階からウオーターベッドが落ちてくるかも!」・・・・、実
はその日は一階の和室で寝ていて、隣の身重の女房を咄嗟にガバッと上に覆
ってプロテクト、と今でも思っているのだが・・・(嫁は?かも)、「何が起
こったんや?」二人で顔見合わせ、急いでテレビをつけると速報で大地震だ!
と、それからずっとテレビに釘つけで、次々と見た事もないような光景が!
大惨事の状況!報道ヘリコプターが神戸の、長田のモクモクと黒煙と火柱の
上空を旋回する光景・・ それが阪神・淡路地震だった。多くの人生に転機
を与えた自然の脅威だ。

 その3月に末娘が産まれ、ストレス、プレッシャーはあるものの、このま
まサラリーマン人生が続いていくものだと思っていた。そこへ親会社の事業
の躓き、それに派生する関連会社、子会社の整理・縮小、等々。勤務先はグ
ループ企業の中で唯一のモノ作りの事業で、工業炉設備やTV(テレビ)の
製造設備、機械の中堅メーカーだったので、倒産であれば有無は無いのだが
債権機関の都合で「はい。やめました」とは世間に通じないのは明らか、ユ
ーザー企業への納入機械の保守、メンテ・部品の供給などの継続することが、
事業部長だった私が同僚と共に、事業の継承を引き受けた理由だった。但し、
資本関係は持たない、当面の運転資金は、貸してやる、の条件で新しく?ア
イテックを設立し、そこから私の社長業が始まった。平成7年の7月の新し
い人生の始まりであった。それまでの期間、社員の身の振り方から退職金な
どの交渉を会社と行い、まさしく人生の悲哀を経験した。混乱の時には、疑
い、裏切り、別れ、奪い合い等々、人間模様が出てくるんだな?と、そんな
体験しがたい事を経験した。
 新会社は15人でスタートしたが仲間は今も固い絆で繋がっている。あれ
から17年、末娘も今や高校三年生、毎日受験勉強と戦っている。会社も今
年で17歳、娘の年齢と同じ年齢で覚えやすいが、こっちはチト後れを取っ
ているかな?? そんな気持ちがちらっと横切る・・・・・
 これまでの人生、総じてモノ作りに携わってきた。社会人になって44年
間、山あり谷あり、世の中の流れ、世界の流れに否応なく影響を受けてきた
な?、が実感である。47歳迄の27年間はテレビ用ブラン管の炉設備の製造、
資材、営業等の仕事をした。海外へもたくさん輸出を手掛けた。しかし事業
継承したこのテレビ用ブラウン管炉ビジネスは液晶テレビの台頭で急激に重
要はなくなり、5年後には完全に消えてしまった。今まさに日本の液晶テレ
ビが局面を迎えている。あの頃の事がダブって頭をよぎる。主力ビジネスが
急に消えると企業は大手といえども死活問題である。ましてや中小企業は、
そこで倒産という結末がシナリオになるのだが、私は幸いにも21世紀に通
じる先端技術を開発して、新規ビジネスの構築をしよう!と新会社発足直後
から信頼できる仲間と共に研究開発を開始した。大学のシーズを実用化する、
いわゆる産学連携で技術開発・実用化に向かって動き出した事が会社の存続
に繋がっている。
 当社の技術の根幹は高温・高圧反応を連続プロセスで行う事を特徴とする。
炭酸ガス(CO2)や水が持つ超臨界流体の特質を利用して、地球環境に優し
い先端材料を創製する。さらにこのプロセスの装置を開発することである。
この技術の応用範囲は非常に広い。これからは実用化にどんどん加速をつけ
ていく計画である。「窮して変じ、変じて通ず」 前に進むことで継続を遂
げる、私のモットーとしてきた。 

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