Members Column メンバーズコラム

関西と岩手とのユニーク(独特)な縁

土井尻 英明 (岩手県ふるさと振興部国際室)  Vol.686

1 はじめに
KNSの皆さん、こんにちは。まずは、この度の能登半島地震で犠牲になられた方々のご冥福を謹んでお祈りするとともに、被災された皆さまに心からお見舞い申し上げます。
さて、万感の思いに浸りながら大阪、関西の地を後にし、間もなく三年が経ちます。
私は2019年4月から2021年3月までの二年間、梅田の大阪駅前第1ビル(1ビル)に入居する北東北三県大阪合同事務所及び岩手県大阪事務所の二枚看板で所長を務めました。ちなみに、北東北三県とは、岩手、青森、秋田で、所長は三県で二年交替・持ち回りで当たっています。
着任直前までは、交通政策室という組織で、いわて花巻空港の利用促進の仕事をしていましたので、伊丹・花巻線運航の面からも、大阪・関西とは少なからずご縁がありました。ちなみに、花巻市は宮沢賢治(二刀流どころか五刀流はたまた六刀流?の才能の持ち主)の故郷として有名ですが、今では、大谷翔平選手の母校・花巻東高校の地元として有名になったものと思います。
大阪事務所での主なミッションは、観光客の誘致、県産品の販売促進(西梅田駅そばのドージマ地下センターに立地の「青森・岩手えぇもんショップ」)、県内に工場等を立地する在阪企業へのフォローアップなどです。
二年の在職期間のうち折り返しの一年は、コロナ禍で、公私ともに制約の多い日々を過ごし、志半ばで後ろ髪を引かれる(実際には後ろ髪はほとんどありませんが┄┄)思いで帰郷しました。
さて、今回は「関西と岩手とのユニーク(独特)な縁」と題してコラムを書かせていただきましたが、皆さんは関西と岩手との間で思い当たるご縁はあるでしょうか。(もちろん、KNS立ち上げに関わったINSの存在はありますが、私から紹介するまでもありませんので割愛します)
東日本大震災津波発災以降、岩手県は関西の皆さんから、物心両面にわたり多大のご支援をいただきました。改めまして心から感謝申し上げます。一方で、この震災を通じて様々な分野で人的な交流がさらに活発化し、地理的な距離以上に心の距離が縮まったものと思います。
ちなみに、かつて詩吟ネタで一世を風靡した天津・木村さん(姫路市出身)が、私の帰県時期と同じくして、岩手に移住し、今では岩手県の大応援団として、県内外で岩手の魅力を発信してくれています。例の詩吟ネタは完全に封印していますが、「あると思います!」の決め台詞は、県民に浸透しています┄┄。かな?。いずれそれだけ木村さんは岩手にすっかり馴染み、県民からの好感度も相当高いものと思います。
そんな最近のゆかりもありますが、ここからは、大阪在職時代に私が関わった2つのご縁を紹介したいと思います。

2 清水寺に建立の「阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の碑)」
奈良時代から平安時代にかけて、当時の東北地方は、朝廷の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していました。朝廷は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼んで、幾度も大軍を派兵しましたが、38年もの間、蝦夷の抗戦にあいました。802年、胆沢(いさわ。現在の岩手県奥州市水沢)を最大の拠点としていた、蝦夷の頭領アテルイと副将モレは、討伐軍の征夷大将軍・坂上田村麻呂の勧めにより休戦に応じて上京しますが、田村麻呂の嘆願もむなしく、二人は河内国で斬首されたとされています。
清水寺は坂上田村麻呂が建立したといわれていますが、昭和62年、関西に住む奥州市水沢出身の有志の皆さんが故郷の英雄アテルイ・モレを顕彰する活動を開始しました。その後、清水寺から建碑の許しを得て、平成6年に平安遷都1200年を記念して清水寺本堂下の南苑に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」が建立されました。揮毫は、年末恒例の「今年の漢字」を執筆されている森清範貫主ご自身によるものです。以後毎年11月の第2土曜日に碑前にて清水寺の僧侶の皆さんと関西アテルイ・モレの会の皆さんらが碑前に集まって、顕彰と慰霊供養の法要を行っています。
また、清水寺と岩手県とのこのようなご縁もあり、平成22年には、京都岩手県人会の当時の及川会長が中心となり「京都清水寺で南部風鈴を愛でる会」を立ち上げ、清水寺をはじめ沢山の関係者の皆さんの理解と協力を得て、毎年8月1ヵ月間、清水寺境内の開山堂(田村堂)と回廊に、岩手を代表する伝統工芸品・南部鉄器製の南部風鈴約500個が飾られています。
令和元年には10周年を迎え、清水寺と岩手の交流発展、東日本大震災津波の被災地の早期復興、そして世界の恒久平和等への願いを短冊にしたためながら、猛烈な京都の暑さの中、涼やかな音色で参拝客を癒してくれています。

3 比叡山延暦寺に建立の「宮沢賢治の歌碑」
さきに、花巻と言えば宮沢賢治の故郷と述べました。ちなみに花巻東高校出身の大谷翔平選手は二刀流として、野球界で世界的なスター選手の地位を確立していますが、宮沢賢治は、詩人・童話作家や農芸科学者・教育者にとどまらず、地質学者、宗教思想家、音楽家など多彩な才能を発揮し、まさにスーパーマンでした。
実は比叡山延暦寺に、宮沢賢治の歌碑が建立されていることはご存じでしょうか。昭和32年に、延暦寺の総本堂・根本中堂の横に建てられています。なぜ、ここに賢治さんの歌碑が建てられたのか。(愛着を込めて“賢治さん”と呼ぶ県民も多いです)
さらに、毎年、賢治さんの命日の9月21日には、延暦寺主催による賢治忌法要が行われています。延暦寺との関りとは何か。賢治さんは生涯、旅行で2度関西を訪れており、1度目は盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の修学旅行。2度目は父政次郎さんと二人での比叡山参詣旅行で、この時に“比叡12首”の歌を詠み、昭和32年の命日に根本中堂に建立された歌碑には、12首の冒頭で詠まれた「根本中堂 ねがはくは 妙法如来正徧知 大師のみ旨成らしめたまえ」の歌が刻まれました。
延暦寺では年間300回以上の法要があるそうですが、その多くは延暦寺の歴史に残る高僧で、文学者は3名のみで、賢治さんはその一人なそうです。歌碑の建立発願者は「関西宮沢賢治の会」の初代会長で、千日回峰行を達成された大阿闍梨、葉上照澄上人(延暦寺長﨟)です。上人は賢治さんの生き方に深く感銘し世界平和を願い国際的にも活躍されたそうです。

4 おわりに
大阪在職中の二年、こうして紡がれたご縁に思いを致し、感謝しながら、清水寺と延暦寺でのそれぞれの法要に参列させていただきました。
個人的には、関西を離れてから3年を迎え、そして東日本大震災津波から13年が経過しました。関西の皆さんにとっては、阪神・淡路大震災を経験し29年が経ちましたが、同じ大災害を経験した地域だからこそ理解しあえることが沢山あると思います。お互いのゆかりや魅力をもっと分かりあい交流がさらに深められるよう、これからも岩手をPRしていきたいと思います。
そのためにも、野球好きの私としては、岩手出身の大谷翔平、菊池雄星、佐々木朗希の各選手の一層の大活躍に期待し、活躍を通して岩手をさらに印象付けられればと考えています。
このほか、オリックス入団二年目で、次代の山本由伸と期待されている齋藤響介投手(盛岡中央高校卒)の活躍も楽しみにしています。
そして、小学生時代からファンのタイガースの連覇も確信しつつ、今年こそ関西に足を運びたいと切に思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

PAGE TOP