Members Column メンバーズコラム
そうだ、イノベーションのビオトープを創ろう!
小野寺純治 (株式会社イノベーションラボ岩手) Vol.640
KNSの皆さんこんにちは!岩手大学に勤務していた小野寺純治といいます。このコラムには東日本大震災直後に掲載させて以来のご無沙汰になります。12年ぶりの寄稿になりますが、今回は私が産学官連携に身を置いたときから振り返って、標題の言葉にたどり着いた心境を述べたいと思います。お付き合い願います。
【INSとの出会い】
KNSの皆さんはご承知と思いますが、「岩手ネットワークシステム(INS)」という産学官民コミュニティがあります。INSは1992年に発足していますが、実はその前の1987年頃から名前の無いまま5年ほど活動をしていました。私は1988年からそのコミュニティに参加しました。当時は土曜日が半ドンで、仕事が終わった後の午後3時頃から蕎麦屋の2階や公民館の会議室に、岩手大学の清水健司先生からの暗号文のような案内文いただいて幕末の志士のように集まっていました。会合は清水先生の人的ネットワークの中で新しい人を見つけてきては参加者を紹介し合うという “飲み会”でした。そのうち、飲むだけでなく酒の前に誰かに話をさせようということになり、“飲み会+話題提供会+自己紹介会”の活動に発展?していったのです。当時私は岩手県職員として10年間の水商売(工業用水道、上水道、広域水道)を経て陸に上がったカッパ状態で商工労働観光部工業課に異動したばかりでしたが、この秘密めいた会合の面白さにすっかりと嵌まってしまったのでした。
私はこのコミュニティを勝手に「清水ネットワーク」と呼んでおり、その魅力を「知らない街の場末のスナック」と表現していました。当然に客引き?は清水先生です。このコミュニティに参加して来るメンバーは岩手大学も岩手県も民間企業も30・40代であり、岩手県庁の管理職に受けの良くない一見妖しげな雰囲気を漂わせていた名前のないアメーバー的でインフォーマルな組織でした。
自称清水ネットワークは、1992年に「いわてネットワークシステム(INS)」として正式に発足しました。それまでの5年間はまさに妖しげな組織であり、INSとなってからその衣をまとったままでの活動でしたので、メンバーは自虐的に「いつも飲んで騒ぐ会」と称しました。その間に岩手大学のメンバーは県庁のメンバーが制度化した「産学官連携促進事業費補助金」を活用して共同研究の実績を積み重ねるとともに、国の大型の研究開発プロジェクトにも採択されるようになりました。会員数も飛躍的に増大し、研究会も30を超えるようになった2003年に、第1回産学官連携功労者表彰において経済産業大臣表彰を受賞し、全国的にも最も活発な産学官連携組織と認められたのでした。
しかしながら、このような成功体験は既存体制におもねらずフラットで自由な活動、妖しげで裏の組織といったINSに脚光を浴びせる形となり、妖しさのない普通の組織へと変貌していったのです。私はこれを「太陽にさらされたモグラ状態」と呼んでおり、興味本位の参加者が増大した一方、真に産学官連携を求める人たちを遠ざけるようになっていきました。草創期からのメンバーも齢を重ねて各分野でそれなりの地位につくと、信条としていた「既存体制におもねらずフラットで自由な活動」は既存体制とマッチすることになり、若手の関心を引くような「妖しげで魅惑的な」組織からはずれていってしまったのです。
私はINSの絶頂期の2003年に人事交流で県職員から岩手大学教員に転じ、産学官連携や地域連携を担当することになりました。国が進める産学官連携の狙いは、下図のとおり最終的にはイノベーションの創出となっていますが、研究シーズからイノベーションを起こす科学技術イノベーションは社会実装が極めて難しく、INSのメンバーは文部科学省や経済産業省のプロジェクトに相次いで採択され、その総額は100億円を超え、大学発ベンチャーも複数誕生しましたが、補助金の総額を超えるような産業を未だ作り出せずにおります。
【人材教育との出会い】
私は人事異動で思いがけずに大学教員となった身であり、学生時代を沖縄返還闘争や学費値上げ闘争によるストライキに明け暮れた毎日(といっても私はノンポリに近いノンセクトラジカルでしたが)を過ごしており、教養部時代はまともに授業を受けたことがありませんでした。このような私が大学でまともに教えることが出来るはずもなく、大学ではやむを得ず年間に1つの授業を受け持つだけて、講義からは逃げ回っておりました。
そんな私を変えたのが文部科学省の「地(知)の拠点大学による地方創生推進事業(COC+)」でした。このプロジェクトは第二次安倍政権下での地方創生の取組から生まれたプロジェクトであり、地方大学の学生に地元定着をさせて東京に来ないようにさせようというものでした。日本の為、社会の為に学生教育を行っているという自負を持つ国立大学ではかなりの葛藤があったプロジェクトですが、岩手大学でも「毒皿だがやらないよりはまし、東日本大震災被災地の大学として復興を担う若者を送り出す」という考えの下、他大学や自治体、経済産業団体と連携して申請し、採択されたのでした。
このプロジェクトは多くの機関・団体が参画することから、専門の調整役をCOC+推進コーディネーターとして置くことが求められており、地域連携を業務とし、行政も大学もそれなりに分かる小野寺が適任だろうということで、大学を一旦退職してこのポストに就いたのでした。このあたりの詳細については「新地域と大学」(萩原誠著、南方出版社)に詳しく掲載されておりますので、ご購入してお手にとっていただければ幸いです。
私はそれまで、学生は自らの可能性を信じて羽ばたいていくもの、震災後には岩手を知り、自らの興味や仕事と岩手(ふるさと)を結び付けていくことを考える学生を創出すべきという考えでおりましたが、その考えに岩手に就職させるという大きな変換ファクターが入ってきたのです。学生が地域に残らないのは、①地域を知らない、②地域に魅力がない、③一度は華やかな都会に出てみたい、ということに尽きると考えておりました。そこで、①では学生と企業が一同に介して互いを知る「ふるさと発見!大交流会in IWATE」を開催したり、自治体と連携して自治体お勧めの企業を学生が見て回る「バスツアー」などを企画・実行しました。②については「イノベーションが必要であり、それを実行する人材育成が必要」と言うことで、参加高等教育機関が取り組めていなかった「アントレプレナー人材育成」を課外活動として学ぶ「いわてキボウスター開拓塾」を岩手県の支援で開催したのでした。③は若者の信条として良くわかる、いずれ戻ってくるような仕組みを・・・、ということになりました。
【イノベーションにはイノベーションのゆりかごが必要ではないか】
産学官連携はイノベーションを創出させる手段であり、2010年頃にイノベーションが連続的に生まれて自律的に回っていく仕組み(エコシステム)の必要性が言われるようになりました。私はイノベーションの専門家ではありませんが、イノベーションはある作用が社会的受け入れられ社会を変える一連の流れであり結果でしかないと思っており、「イノベーションを狙って生み出すのってどだい無理」と思っておりました。
しかし、イノベーションをエコシステムという生態系として捉えるならば、自然界には新たな生態系を創出する生命のゆりかごと言われる「ビオトープ」があり、イノベーションにも必要ではないか。イノベーションのビオトープでは多様な人間が対話を重ね、面白いアイデアを生み出しそのアイデアを実践してみる、そしてまた、より面白いアイデアを考え実践する、ということが気兼ねなく出来る場(環境)と捉えました。自然界にあるビオトープは、湿地に太陽と木陰、少しの栄養分、花と花をつなぐ昆虫が必要ですが、何よりも生態系の中の微妙なバランスの中に維持されている場であり、肥料も水も光も多すぎず、少なすぎず、が大切です。ビオトープ内である植物が大きく成長を始めたなら、その生態系が壊れないように見守り、成長し始めたものを慎重に他の場所に移植しなければビオトープを保全することができません。イノベーションのビオトープも同様と考えています。この私の考えを岩手県の増澤亨さんが絵にしてくれたのが下の図です。
【そうだ、イノベーションのビオトープをつくろう】
イノベーションのビオトープは、そこに集う人々が肩書きや所属に縛られることなく、個人として興味のあること面白いと思うことを参加者との対話によって形にしていく、そう、INSの初期のようなものではないか、と思い至りました。すると大切なのはそのようなフラットな関係性を維持・保全する組織体が必要ではないか。
COC+プロジェクトが終了した1月後の2020年4月30日に賛同者を募って株式会社イノベーションラボ岩手を設立いたしました。新型コロナ禍でのスタートでしたが、出資者には私がこれまでお世話になった方々にお声がけし、「利益が出ても次のベンチャー育成の資金にしますので、配当はありません」と言ったにも拘わらず、趣旨に賛同してくれた個人からグローバル企業、地域金融機関、県内外の中小企業等が40万円から100万円の範囲内で出資してくれ、資本金800万円の会社として人材育成からコミュニティ形成の場の運営、地域振興に繋がる取組、産学官連携の橋渡しなどの事業を実施しております。
これらの取組につきましては、また、別の機会に紹介させていただきたいと思います。長文になりましたが、最後までお読みいただき有り難うございました。