Members Column メンバーズコラム
古墳ってなんだろう?
郡 麻江 (古墳ライター) Vol.803
古墳の中でも前方後円墳は国の始まりを支えた重要なシンボルだった?
この写真を見て「これって、なに?」と思われた方は少なくないと思います。
これは古墳です。詳しくいうと群馬県高崎市にある『綿貫観音山古墳』(わたぬきかんのんやまこふん)です。とても美しいですよね。この古墳には登ることもできますし、心臓部である石室に入ることもできます。
多くの方が古墳といえば、昔、教科書で見た『仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)』を思い浮かべると思いますが、実は古墳は北は岩手県から、南は鹿児島まで列島全域に造られていて、
その数は16万基とも言われています。
仕事柄、古墳について、多くの研究者の方にインタビューをさせていただいておりますが、古墳はなぜ現れたのか?そして、その背景には何があったのでしょうか?そのことからお話ししようと思います。
古墳時代は諸説ありますが、前方後円墳が作られた時代が古墳時代と考えれば三世紀の中頃から築造が始まり、六世紀末で終わります。その後、飛鳥時代になって前方後円墳の築造はほぼなくなって、円墳や方墳、天皇陵としては八角墳が築造され続けます。 ですから、三世紀の中頃から七世紀の初め頃までを古墳時代と呼んでいいと思います。
古墳には円墳、方墳、前方後方墳などいろいろな形がありますが、最も重要なのが、前出した『仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)』に代表される前方後円墳です。
この前方後円墳というのは、3世紀中頃に、奈良県桜井市の纒向に樹立したといわれるヤマト王権が考え出したもので、ヤマト王権が列島を国として一つにまとめていくにあたって、発行したメンバーズカードのようなものだと考える先生が多いです。
どういうことかといいますと、地方の有力な豪族のリーダー=地方のクニグニの王が、ヤマトの大王のところに出向いて、王権に協力する=つまり連合するという意思を表示すると、大王の墓よりサイズは小さいものの、大王と同じ前方後円墳の設計を教えて、その地方に大王と同じ形の古墳を造ってもいいという許可が出たのではないかという説が有力です(他にも諸説ありますが…)。つまり、前方後円墳とは、ヤマト王権と地方との同盟関係を表す、政治的モニュメントだったと言えます。
前方後円墳という政治的モニュメントを、地方の王が自分たちの領土に持ち帰るとどうなるでしょうか?前方後円墳がその土地に着々と築造されるのを、近隣のライバルの王たちも目にするわけです。前方後円墳を造ることができるということは、つまり、「俺の後ろ盾にヤマト王権がついているのだぞ!」という強力なメッセージをライバルたちに伝えることができたはずです。
こうして、前方後円墳の築造技術を持ち帰ったクニの王は、その地方の小競り合いを収めて、今の都道府県のように地域ごとにまとまっていったと考えられます。その地方のクニグニをヤマト王権が統括して列島統一を果たしていく、という図式になっていったのでしょう。それがどんどん連鎖して、北は岩手県から南は鹿児島県まで、列島全体に前方後円墳が列島全体を網羅するようになり、ここに倭国(古代の日本)連合が出来上がったのです。これを前方後円墳システムと呼ぶ先生もいます。
いずれにせよ、古代倭国において、私たちの祖先は、戦争で征服するのではなく、前方後円墳という古墳の築造によって、ヤマトを中心にゆるやかな政治連合体制をつくりあげていったと言えます。このような国の成り立ちは、世界でも稀有だそうです。
前方後円墳連合システムに呼応して、経済的なネットワークも生まれます。「前方後円墳のある地方はみなヤマト王権側の味方」という認識があるので、その地方同士は安心して行き交うことができます。列島の北から、南から、あるいは半島や大陸からの文物が、前方後円墳のある地方を巡り、行き交って、おそらく各地方に市が立ち、文物が交換される物流体制が出来上がった…。こうして、政治的にも、経済的にも列島が一つにつながって、日本という国は生まれたのです。その背景には古墳が重要な役割を担っていたということになります。
16万基もの古墳が築造された古墳時代とは、どんな時代だったのか?
古墳時代、私たちの祖先はとにかく全ての情熱を傾けるかのように、がむしゃらに、どんどんどんどん古墳を築造していきました。そんな暇があれば、同じエネルギーと労働力を使って、大きな官道を整備したり、田畑を開墾した方が、国としてはもっと発展したに違いありません。
しかし道よりも、農地よりも、私たちの祖先は古墳作りに全ての情熱を傾けていたのです。それはどんな背景があったのでしょうか?
ある先生は、「古墳時代、中国も混乱の時代でたまたま大国が現れなかった。朝鮮半島は陸繋がりで中国の脅威に常に晒されていた。しかしながら、倭国は日本海によってある意味、軍隊などの上陸が困難で、平和にのんびりと前方後円墳を造り続けることができたのではないか?古墳時代とは実に呑気で幸せな時代といえる。日本人は古墳によって、日本人らしい国造りを行うことができたのだ」と話されていました。私はこの話を聞いたとき、平和ボケとも批判もされますが、日本人の穏やかな精神性、和の精神の根幹は、古墳時代に出来上がっていたのだなあと納得したことを覚えています。
現在、考古学の世界も最先端の科学技術が取り入れられ、航空機を使った航空レーザー調査など、地形や古墳の内部(石室の位置)なども高精度な三次元データとしてわかるようになってきました。新たな古墳の発見もまだまだありますし、奈良の富雄丸山古墳のように未盗掘の古墳から、世界的に注目される遺物の発見なども相次いでいます。
最新技術と、研究者の皆さんの地道な発掘調査で、古墳の謎はさまざまに解き明かされつつあります。
博物館で展示されている埴輪や装飾品などの遺物のクオリティの高さを見ると、古墳時代がいかに平和だったかを読み取ることができます。戦いがなくなり、大王の治世のもとで、地方の王が政治を行い、平和が保たれ、おそらくですが、人々は春・夏・秋は農業に勤しみ、冬場は王のための古墳の築造に勤しんで、埴輪や土器などの創作にも力を入れることができた…。そこには豊かで大らかな暮らしがあったのではないか?と考える先生もおられます。私も古墳に会えば会うほど、それを実感しています。
古墳の向こうには古墳時代の、私たちの祖先がいます。生き生きとした暮らした彼らの姿を垣間見ることができるのが古墳なのです。
16万基もありますから、自分の故郷や、あるいは縁のある土地、あるいは旅先で古墳を探してみてください。地域の教育委員会の文化財課に電話をすれば、おすすめの古墳を教えてくれると思います。ただし、北海道、青森、秋田、沖縄には古墳時代の古墳はありません。つまりこの4つの地域には、前方後円墳連合システム=ヤマト王権の手が延びなかったということにもなります(でも、北海道、青森、秋田には素晴らしい縄文遺跡(世界遺産)がありますし、沖縄にも素晴らしい琉球文化がありますよね)。
古代を知るということは、私たちが生まれ育ったこの日本という国の『はじまりのかたち』を知ることができるのです。
気が向いたら、まずはご近所の1基から、古墳を訪ねてみませんか?
