Members Column メンバーズコラム
ファミリーヒストリー
野上 和弘 (野上織物株式会社) Vol.802
このたび和歌山県の地元振興局から、会社で百年企業表彰の申請をしませんかとの、お話がありましたので、今回、申請を出させてもらうことになりました。
表彰いただけるかの決定はまだですが、申請には会社の創業からの沿革を書かないといけませんので、それに合わせて、我が家の家業の昔を少しご紹介させていただきます。
ちょうど昭和は100年の節目ですので、それ以前の創業であればいいとのことです。ただしエビデンスがいるとのことなので、1922年(大正11年)の平和東京博覧会の表彰状の写真を提出しました。この博覧会は第一次世界大戦の終結記念として上野で行われた大正時代の一大イベントです。黒シールという織物で表彰されています。
両親も叔父叔母も亡くなって、わたくしの兄弟いとこの世代になっていますので、ファミリーヒストリーとしては、いろいろな写真や記事と私たちの世代の記憶になります。
家業の創業は、ネクタイを商いしていた野上梅太郎(わたくしの祖父)が1913年(大正2年)に織物業を創業、父の野上茂男が1925年(大正14年)に生まれてすぐ30代で昭和元年に亡くなっています。
その後は祖母ユキエや番頭さん格の人などで織物業をつぎ、昭和2年に野上合名会社設立、昭和3年に地元産地としてははじめてドイツより織機を導入しています。
戦時中は三菱電機のモートル工場として接収されたとのことですが、このころの詳しいことはあまり聞いていません。
いまも兄が住んでいますが、自宅の奥が昔の工場となっていまして、1961年(昭和36年)に今の国道沿いに工場を新設するまで、家の奥で織機がガチャガチャとうごいていました。
1950年(昭和25年)に野上織物株式会社を設立、父の野上茂男が社長となりました。
自宅の奥が工場のときは、鹿児島あたりから集団就職の女工さんも住み込みで居ましたし、大勢の職人さんが出入りしていました。
祖母の話では24時間操業でしたので、昼夜問わず、大勢の人が出入りしていましたので、昔の台所の食べるところでは、たまに全く従業員でもない知らない人が食事をしていたたこともあったそうです。あんた誰?
祖母の話は面白く、いつのことかはわかりませんが、やくざさん?がおひけえなすって、と仁義を切ってきたとき、祖母は仁義をきりなおしたとのこと。
昔のひとは男も女も肝が据わっています。
戦後は輸出関連の商いも多く、インド人のバイヤーが出入りしていたり、家族同士の付き合いもありました、思い出しました!キシンチャンドさん!
私たちは全く知りませんが、いわゆるガチャマン時代もありました。
その頃は織機の職人さんは、高給取りで、大卒の何倍もの稼ぎがあったそうで、そのころには独立して自営業に転じた職人さんも多かったようです。
ただ職人さんは織ることが専門で、準備工程はほかの人がするのですが、人手が足りないと経営者家族がその職人さんが出勤するまでに準備工程を手伝うことでかなりの忙しい仕事です。
ガチャマン時代の逸話としては、織物の組合の旅行で宮崎あたりへ行ったとき、野球の読売巨人軍の宿舎と同じだったそうですが、巨人軍についていた芸者さんを、全部こちらに引っこ抜いてきたことがあったそうです。巨人より強かった。
100年の間には、昔も当然いいことばかりではありませんで、多額の不渡りをつかまされたり、大きな事故があったりとか。
会社の沿革はとりあえずこれくらいにしておいて、祖母、野上ユキエの思い出を少しおもいつくままにたどってみます。
1895年(明治28年)生まれ、1983年(昭和58年)に88歳でなくなりましたが、私の長女が生まれたのが、祖母のなくなる前の7月5日。長女の名前を付けて報告したところ、いい名前やねーといって7月13日に亡くなりました。
祖父梅太郎とは30代で死別していますので、その後はずっと家業をささえて戦争を乗り越え、1950年(昭和25年)に父が社長になった以降は、仕事にはタッチしていなかったと思います。
ユーモアのセンスがあって優しい祖母の記憶は多くあります。
正月には、祖母が花札を出してきて勝負したり、百人一首も思い出します。
正月の我が家のセレモニーとしては、お屠蘇の前に、大福帳をうやうやしく持って今年もよろしくとかいうのもありました。
屁(おなら)をしたときは、箕面のモミジが散りました、というんやでー、と雅?な言い方を教えてくれました。
父が大学時代学生相撲をしていた関係で、相撲は大好き、一緒に柏戸大鵬で興奮したのも記憶に残っています。
祖母がなくなって43年です。やはり記憶は日々薄れてきます。
皆様もご家族やお年寄りにはいまののうちにゆっくりお話を聞いておいてくださいませ。
