Members Column メンバーズコラム
東日本大震災津波から4年目の日に
吉田真二 (岩手県 環境生活部 若者女性協働推進室) Vol.253
今日3月11日は東日本大震災津波発災から4年目となります。この機会に自分の中の震災を振り返りたいと思います。
○ 大阪事務所勤務と阪神淡路大震災
平成20年に岩手県大阪事務所に異動になりました。
大阪任期中は江坂に1年半、阪神芦屋に1年半住みましたが、近所の芦屋市立美術博物館に行ったときの企画展が「震災から15年 カメラ・アイ 阪神・淡路大震災『市内の情景』記録写真展」でした。衝撃でした。震災当時は海外勤務だったこともあって遠く感じていましたが、この時は、今、自分たちが生活している場所がどんな状態にあり、住民がどういう経験をして来ていたのか時間を超えてヒリヒリと感じながら、妻と黙って見て回りました。
http://www.shinsaihatsu.com/column/20100117ashiya.html
その後「人と未来防災センター」にも家族で行きました。他の地域、後世の人たちに震災のことを伝えることができるのだから、震災の記録、記憶をお金を掛けてでも残してもらってありがたいと思いました。また、大阪から九州へ家族旅行に行った際には「雲仙岳災害記念館 がまだすドーム」にも行きました。これらを見て回る中で「災害に遭ったら自分だったらどうするのだろう。どうやって家族を守れるんだろう。」と考えさせられていました。
○ 平成23年3月11日
岩手県に戻る異動内示を受けた午後、事務所が入っている大阪駅前第一ビルが大きく揺れました。大阪に来てから初めての大きな地震でしたが、震源地は東北でした。それから入ってくるニュースは信じられないものばかり。音声だけの現場レポートが「○○町は壊滅状態です。」と伝えます。「そんな、パニック映画でもあるまいし、人が実際に生活している町のことをそんな軽々しく壊滅状態なんて表現を使うな!」と憤っていたら、本当に悲惨な状況がだんだんと明らかになっていきました。
飛行機は飛ばない、新幹線は運休、高速道路は通行止め。岩手県に自分が戻れば、少なくとも1人分以上の働きをしてやる!と思いながら、家族を置いて行けるのか、岩手県職員として大阪で果たす役割があるのでないかと自分を説得する毎日でした。関西における岩手県の代表事務所として、県出身者から安否確認の相談受付、関西の自治体からの義援金、寄附金の受け取り、岩手県人会による街頭募金、市民の方々からの募金受付などの業務に専念しました。
マスコミ取材や、団体の会合でメッセージを求められることもあり、そこで必ず強調したことは、「東北で大きな被害が出ているからと言って、関西まで経済活動を自粛しないで欲しい。関西で元気に経済を回してもらうことが、ひいては東北の復旧、復興のためになる。」ということでした。
個人的に沿岸部にも多くの友人、知人がいましたが、特に連絡をとりませんでした。とれるような状況でないことに加え、亡くなっていないかという安否確認はしたくなかった、全員が無事であることを前提としたかったのです。唯一、青年交流事業で20年来の仲間たちとは前年の帰省時にも飲んでいたので、メンバーのうち沿岸部の友人数人にメールしました。1人、2人と返信が来ましたが、返信がない女性が1人。数日後、死亡が確認されました。被害はテレビニュースの世界のことと、別に閉じ込めておきたかった気持ちは打ち砕かれました。身近な友人が亡くなったことで悲しみは深くなりました。
震災直後の大阪で「実は阪神淡路大震災で人生が変わった。」という人に何人も会い、話を聞かせてもらい助言もいただきました。私の胸の中には、あの日以来いつ整理が付くのか分からない思いがずっとあります。
○ 関西広域連合・応援派遣職員
県庁に戻って最初の仕事は、国内外からの大量な救援物資の受け取りと被災地への配送でした。
発災間もなく、被災地の危険性がよく分からないこの時期から岩手県庁や市町村に、全国から多くの応援職員が志願して来てもらいました。この思いのある応援がなければ地元職員は倒れていたと思います。救援物資作業には、関西広域連合で岩手県担当になった大阪府と和歌山県の職員が5日間ずつ交代で来ていましたが、大阪から戻ったばかりの私が話し掛けてみると、「施設にいる間は黙々と作業して、あとはホテルと施設の往復だけで、岩手県職員と作業以外の会話をしたのは初めて。」と言われてショックを受けました。盛岡市内は自粛ムードがありましたが、それからは4日に1回、各チームの歓送迎会を開き、その後に加わった鹿児島県や横須賀市の職員も含め大分飲むことになりました。
今も全国から1年、2年といった中長期の応援派遣職員に全県で700人以上に来てもらっています。県外で勤務した経験があり、関西からの支援を直に感じてきた私としては、こうした応援職員の皆さんとのご縁を大切にしたいと思っています。
○ 4年目の3月11日
今年も3月11日が近くなり、NHKではあの日、全国から緊急消防援助隊がどういう思いで駆け付け、救助にあたっていたかの特集を放送しました。あのとき、同じように遠くにいた思いを重ねて胸が締め付けられそうになりました。また、1万人の被災者アンケートから見える、なかなか進まない復興状況での被災者の生活実態、思いは胸に突き刺さります。
一方で、岩手県内であっても内陸の人たちが発災後、まだ沿岸部に行っていないという人が少なくないです。聞くと「自分には瓦礫撤去だとか、音楽で癒すとかできるわけでもないのに、ただの物見遊山的に行くことは失礼なのでないか。」とのこと。私からは「被災者が辛いのは忘れ去られること。特に何かできるということがなくても、復興商店街で買い物をするだとか、ただ見に行くだけもいいんだと思います。」と沿岸部を訪問するよう誘っています。
ちなみに吉田家では小さなことですが、毎年この日の夜は家の電気や暖房を使わずに、厚着をして懐中電灯やロウソクの灯りで過ごし、非常食、缶詰の食事をとっています。
○ 国連防災世界会議
今日、3月11日は、盛岡市で開催されるISO国際会議のスタディツアーの日で、22カ国からの参加者を釜石市、陸前高田市、大船渡市(黙祷)の被災地に案内し、そこで何が起こったのか、そこから何を学び活かすのか、説明させてもらいます。
来週は第3回国連防災世界会議が仙台市で開催され(第2回は平成17年に神戸市で開催)、「コミュニティの地方リスク対策」というセッションでは、岩手県知事から東日本大震災津波の教訓を提案します。
防災では自治会や消防団といったコミュニティの力が再認識されています。産学官民メンバー相互のコミュニケーションを深め、信頼関係を築く異分野コミュニティを目指しているKNS。さまざまなコミュニティを幾重にも重ねて行くことで、いざという時に大きな大きな力になると思います。
○ 若者女性協働推進室
復興支援で大勢の若者がUIJターンして活躍していることから、岩手県では若者活躍支援に動き出し、平成26年4月に今の所属が設置され、私はそこの文化振興担当に異動しました。最初の大きな仕事の一つが「いわて若者文化祭」の開催。文化芸術分野は好きで明るい方ですが、ヲタ芸やらボーカロイドやら今どきの若者文化も勉強しながら、次代を担う若者が「岩手県って面白い!」と思って好きになって、岩手をもっと楽しくしていけるようがんばっていきます。
国内外からの支援に感謝しながら、相互に防災に取り組んでいくことを心に刻み。
※画像は平成23年4月1日、岩手県(北東北三県)大阪合同事務所にてKNSの皆さんからの義援金引渡式。この他にもKNSの皆さんには瓦礫撤去のボランティアや、復興支援の橋渡し、岩手での起業などをしていただいています。