Members Column メンバーズコラム

2011.3.11.から9年目を迎えて

箭野謙 (国立研究開発法人科学技術振興機構)  Vol.501

箭野謙

 本コラムが3月11日に掲載されるとのことで、主要被災県、岩手県に縁のある当方へご依頼をいただいた。「あんまり考え込まないで書いてください。」とのお言葉つきで。ただ、東日本大震災を挟んで11年半(平成17年 – 平成29年)岩手県盛岡市で転勤生活を送った自分としては様々なことを思い出してしまう。
INSそしてKNSとの出会いは、平成17年10月JSTイノベーションサテライト事務局長として赴任直後のことだった。清水健司先生(当時:岩手大学工学部教授)に「芋の子汁の会があるから、一緒に味わいましょう。箭野さんのことをみんなに紹介するから、とりあえず名刺百枚以上は持ってきて。」と言われて会場のすゞ禅さんに行ったのが最初。名刺が足りなくなると「箭野さん、僕のこと信じてなかったでしょ。」と清水先生にニヤリとされた。会場のあちらこちらに車座が自然に出来て、思い思いに人が語る。その熱気に圧倒される夜となった。

当時、JSTでは地域事業として産学連携拠点プラザ・サテライトを全国16か所に設置して、産学共同研究を進めていた。大学・高専・公設試等と産業界を結びつけ、研究成果を技術移転し、企業化を目指すものであった。JSTイノベーションサテライト岩手では、北東北3県(青森県・秋田県・岩手県)にある大学等を対象に技術シーズの掘り起こしなどの活動をしていた。自治体財源の場合、相手先企業には県内企業等の制限が加わることが多い。一方で、JSTでは相手先企業の場所を問わないオープンイノベーションのスタイルであった。

16のプラザ・サテライトのミッションは、イノベーションを通じて地域活性化を図るという点で共通していた。だが、各館それぞれ異なる環境下でのアプローチには、様々な工夫が凝らされていた。担当地域が限られているためにコミュニケーションも図りやすく、状況にフィットした対応を各館で行えたものと振り返る。
しかしながら、このプラザ・サテライト事業も事業仕分けにより、平成23年度末に廃止されることが決定。サテライト閉館に向けて準備を進めていたところ、東日本大震災が発生した。

2011年3月11日は本来なら釜石で岩手県が主催する関満博先生の講演会に参加予定だった。だが、年度末用務が重なり直前に釜石出張を取りやめたところ、事務所でこれまで体験したことのない大きな揺れに遭遇した。発生時、サテライト岩手の平山健一館長もご一緒だった(現在のINS会長)。幸い、岩手県先端科学技術センターという頑丈な研究施設を岩手県から事務所として借用していたため安心感はあった。この時、東京まれ東京育ちの自分は沿岸の津波のことが頭に浮かばなかった。平山先生が独り言のように「心配だなあ。」と呟いていらしたが、その意味するところを汲み取れずにいた。河川工学がご専攻である先生のこと、すでに思いは激しい揺れ後の沿岸地域にあったのだと思う。

事務所内の安全を確認すると、次は出張者の状況確認だ。この日は、八戸工業大学に2名が出張。貫洞義一科学技術コーディネータと富樫昭典コーディネートスタッフが公募事業説明を行っていた。東北地方は地震後、全面停電。頼みの綱は携帯電話(ガラケー)である。スマホよりも電池が長持ちするのは助かった。携帯電話が貫洞科学技術コーディネータに運良く複数回通じた。説明会を中止し八戸駅前のホテルを確保できたものの、避難要請に従い避難所に向かったこと。食事や寝具等の支給があったこと。翌朝新幹線が不通だったが、盛岡迄乗せてくれるタクシーが見つかったこと。とにかく、地震発生のその日、無事の確認が出来てホッとした。

津波を自覚するに至ったのは、3月11日夜、母からの電話だった。「沿岸が大変なことになっている。津波のこと、知っているのか?」と。先述の通り、停電だったため暗い中、妻の携帯電話で映像を見た。妻は岩手県出身とは言え、内陸の盛岡出身。映し出された光景を二人ともにわかには信じられなかった。「まさか。嘘。」

 翌日、3月12日土曜日午後、岩手県庁のお世話になっている担当課、科学・ものづくり振興課(通称かも課)に顔を出した。職員の皆さんが徹夜対応されていたのは、鈍い自分にも伝わった。つい沿岸の状況はどうですか、といった愚かな質問をし、答を聞いて後悔した。「今のところ、約2万人と連絡がついていないんです。もちろん、これから段々と減っていくと思いますが・・・。」返す言葉がないとはこのこと。さりとて黙り込むのもいけないと「それは厳しい状況ですね。」といった、わかったような言葉を口にすることしか出来なかった。
帰り際、県庁正面玄関横にある県民室が大勢の人で混雑していることに気づく。中に入ってみると携帯電話の充電に並ぶ人だった。事務所に隣接する岩手県工業技術センターの副所長として知り合った小山康文さん自らが対応にあたっていらした。「(他と違って)ここは賑わってました!一人10分でもこの行列。」地震後静まり返った街に、人の喧騒が出現。普段と違い人混みに安心感に近いものを感じた次第。

 震災への対応が被災地で進む中、発生の翌年度(平成23年度末)、16のJSTプラザ・サテライトはすべて閉館。サテライト岩手も同様。だが、サテライト最終年度に復興支援準備室が出来、平成24年度から正式に「JST復興促進センター」が開設された。事務所は、盛岡(岩手県)・仙台(宮城県)・郡山(福島県)の三か所。盛岡の場合、事務所は岩手県からサテライト岩手と同じ場所を引き続き借用。

INSで培ったネットワーク力は大きかった。このネットワークの有難さを痛感したのがJST復興促進センターを開設した4月のこと。
新組織や復興促進事業についてはほとんど周知がなされていない中、JST復興促進プログラムの事業説明会を計画していた(4月20日金曜日開催と記憶している)。
事業説明会を開催する週の月曜日の打ち合わせ時点で登録者数19名。一方、郡山事務所がその週の水曜日に行う事業説明会の登録数は100名を超えていると聞いた。盛岡事務所に隣接する岩手県工業技術センターの一番大きな会場を借用する以上、ある程度の参加者は必要だ。事務所のメンバーには「参加者数よりも、どれだけ質の高い産学のマッチングを実現できるかですよ。」と言っていたものの内心は穏やかでない。「これはマズイ。それも、もの凄く。母集団はある程度ないとマッチング自体難しくなる。」メーリングリストなどへの投げ込み。自治体・役所関係・研究機関・工業クラブ等産業関係の諸機関・金融機関へのローラー。更に個別メールと電話。(メール内容は相手によってオリジナル)事前の登録である程度の感触はあったが、事業説明会当日の飛び入り参加もあり、まさかの200名超え。「今日来られない人の分も資料を持ち帰りたい。」との希望もあり、コピー機がフル回転で対応。情報が通る見えない道(人と人とがつなぐ道)を感じた場面でした。

こうした事業説明会を通じて広報し、企業訪問によるニーズの収集、被災地企業の課題解決に役立つシーズ探索を行うなどして、相談件数は復興促進センター3事務所で1100件以上。採択課題数288課題。(うち盛岡事務所92課題)。産と学とマッチングプランナー(JST)とが共同プロジェクトを組み研究開発を進めた概要は、JST復興促進成果事例集にて検索されたい。
※上記課題の一つ「鉄と炭を利用した牡蠣養殖技術の開発」は、岩手県の山田湾で進めました。名物のカキ小屋の写真をご紹介します。45分間蒸カキ食べ放題。

JST復興促進センターは平成27年度末に事業終了。当方はマッチングプランナーとして更に一年間、佐藤利雄マッチングプランナーと席を並べて活動した後、平成29年春11年半ぶりの東京へ帰任。現在も、佐藤利雄氏と同じ産学連携展開部である。

9年前、失った当たり前の日常。失って初めて気が付いた有難さ。その後、阪神淡路大震災を経験された関西の皆さんはじめ、沢山の応援をいただきながら、復興は現在進行形だ。
そんな中、3月11日の祈り場を新型コロナウイルスが奪い、世界の人々の日常をまでも狂わせようとしている。こうした時だからこそ、life~「生命」「人生」「生活」~について考えてみようと思う。

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