Activity Report 活動報告
KNS in 四国番外編「大人の遠足 豊島」
6月27日の日曜日、KNS in 四国の番外編「大人の遠足」と称して、産業廃棄物不法投棄事件で揺れた瀬戸内海の島「豊島(てしま)」を訪問。
長年の間闘い続けた農事組合法人てしまむらの石井亨さんの案内で、不法投棄現場や資料館、壇山等々、豊島の各所を訪れ、お話をおうかがいしました。
その記録について、KNSメンバーのひとり堀越規子さんがまとめたレポートが届きましたので、下記に掲載します。
豊島を訪ねて
- 本当の『強さ』とは何か。真の『豊かさ』を取り戻すための闘い -
—–2010.06.27 KNSin四国@豊島 堀越規子—–
2010年6月27日(日)
前日の豪雨が嘘のように晴れた空。
南国香川の暑い日ざしが降り注ぐ。
海沿い特有の湿度の高い空気がじっとりまとわりつき体感温度を上昇させていた。
「産業廃棄物」の不法投棄跡地の惨状を目の前にして、私の中の怒りがじりじりと体温をあげていく気がした。
【KNSin四国】の2日目、初めて降り立った瀬戸内海の「豊島」。
瀬戸内海の東部、小豆島の西方3.7kmに浮かぶ面積14.6km2の島である。
人口わずか1041人(平成22年3月現在)。
東京都豊島区とは偶然にも形も大きさも酷似している。
豊島区は面積14.6㎢・人口26万人。
単純に比べても豊島がいかにゆったりと穏やかな島であるかは想像がつく。
「豊島に行く」と聞いたときには、恥ずかしながら事件のことは何も知らなかった。
大自然に囲まれてのんびり「瀬戸内国際芸術祭」の下見でもできたらいいなぁ。
…とまだ見ぬ豊島にわくわくと楽しい事ばかりを期待していた。
『産業廃棄物の不法投棄で一躍有名になった島』であると聞いた時に
単純に豊島行きを心待ちにしていた自分が何だか情けなくなり、当日までに出来る限りの情報を学んでおこうと決めた。
◎まずはネット検索↓
<YAHOO JAPAN検索結果-2010.06.21時点->
「豊島事件」10,100件
「豊島問題」12,700件
「豊島 産廃」381,000件
多数のサイトが様々な情報を記載する中でも私が参考にしたのは、コチラ…
【香川県による「豊島問題」のサイト】
http://www.pref.kagawa.jp/haitai/teshima/
年表が丁寧に記載されていていつ、何が起きたのか大変分かりやすかったから。
「どんな事件だったのか」当時世間に報道されたであろう事件の概要程度は理解できました。
しかし、現場に行き当事者の話を聞くことで、この年表だけでは伝わらない「豊島の真実」を
知ることとなったのです。
まず最初に、長年に渡る事件なので分りやすく年表を作ってみました。
(詳細年表も作ったのですが細かすぎるため下記に掲載)
1975年12月15日豊島総合観光開発株式会社の経営者Mが
【有害産業廃棄物処理許可申請】を香川県に提出したことから「豊島事件」が始まる。
もちろん住民は一丸となって反対をします。
Mが不法投棄の場所に選んだのは島の西端「水ヶ浦」。国立公園に指定された美しい土地でした。
縄文時代から弥生時代にかけては集落が存在し、「水ヶ浦遺跡」「横引ヶ浜遺跡」という歴史的財産が残る土地。
ここに不法投棄をするためにMは遺跡を堀返し、白砂青松の海岸を埋め立てるという
普通では考えられないような「文化財保護法違反」「自然公園法違反」を犯すのです。
Mの暴挙を見て住民は大きな不安にかられます。「お金のためなら何をするか分からない人間である」というのが住民共通のMに対する印象。
<高松→豊島フェリーから産廃現場を望む>
豊富な自然ばかりではなく「ミルクの島」と呼ばれる ほどに栄えた酪農。
「世界最高の漁場」といわれる漁業。美しい棚田が広がる農業。
さらには「豊島石」が石材業を支えていました。
まさに文字通り「豊かな」島。豊島。
その豊かさを守るための闘いが、住民達の「人間としての尊厳」を守るための闘いが、幕を開けました。
住民達は署名を集め香川県知事にMの申請に許可を出さないように嘆願します。
県がすぐに許可を出さないことに苛立ちを覚えたMは敷地内の電線を撤去するために
鉄塔を力ずくで倒すなど暴挙の限りを尽くすのです。
さらにMは県庁に布団を持ち込み泊り込みで県知事を待ち構え情に訴える。
「仕事をしないと稼ぐことができない。従業員や家族を養っていけない。妻が癌になって余命いくばくもない…」など。
ここで香川県の態度が一変。「事業者(M)の生存権」を認める方向へと転換が始まります。
当時の県知事が1997年豊島を訪れ住民の説得を行います。
「人間が生活すれば必ずゴミがでる。どこかに捨てなければいけない。廃棄処理を行えば働く場所も増えて島にとっても有難いことである。
それでも反対するのは『住民のエゴ』であり『事業者いじめ』である。豊島の海は青く空気は綺麗だか住民の心は灰色だ。」と。
これをきっかけに豊島住民は「離県決議」を決意。「香川県をやめて岡山県になりたい」
このままでは自分の思い通りに事業を進められないと感じたMは申請内容を変更。
「ミミズの養殖」という名目で香川県の許可を取り付けるのです。
『無害限定4品目(製紙汚泥・食品汚泥・木くず・家畜の糞)を持ち込みミミズに食べさせる』
という建前でしたがもちろん住民は信じられるはずがありません。
許可差し止めの裁判を続けていくのですが『ミミズの養殖が環境破壊や健康被害をおこすはずがない』という香川県の強い説得により
1978年10月19日和解で終わらされてしまうのです。
-『恐怖』はさらに加速する-
ついに豊島へのゴミの運搬が始まります。
持ち込まれるものは「タイヤ」「ドクロマークやPOISONと書かれたドラム缶」…
とても『ミミズ』が食べるとは思えない代物ばかり。住民達は度々現場への立ち入りを要求し、
香川県に対しても「許可の範囲内で事業をやらせるように」何度も何度も、何度も申し入れます。
その間にもMの不法投棄は悪化していき、ダンプカーで運んでいたゴミを改造した中古カーフェリーの運搬へと手法を変え、
数百?数千tもの「シュレッダーダスト」が日々運びこまれます。
私達が目の辺りにした不法投棄の跡地には今もまだ地下10mにまで真っ黒の「シュレッダーダスト」が埋められていました。
<不法投棄跡地には白いカバーが…>
この場所に「シュレッダーダスト」が埋め立てられドラム缶に穴を開け火をつけていたのです。
黒煙が立ち上る野焼きが毎日のように大規模に行われ子ども達の喘息発症率は1割超、
「空から鳥が落ちてくる」島に変わり果ててしまったのです。
当時国内最高濃度のダイオキシン類が検出された、まさにその場所。
そこに立つ私たちの足の下にも事件の痕跡が眠っていて、「事件はまだ終わっていない」と
訴えているのです。
正直、怖い気持ちも隠せませんでした。現場に立ち、その恐怖を味わうことで
当時の住民の方たちの気持ちが痛い程に感じられました。
もしも自分の家の近くでこんな事が行われていたら……そう考えたら「きっと全力で反対するに違いない」とはモチロン思うのですが、
どう闘うのか、闘い続けることができるのか…は自信がないかもしれません。
だからこそ、長年に渡り闘い続けてきた石井さんの「強さ」を尊敬するしかできない私がいました。
当日、現場の案内・事件の経緯を話してくれた石井亨さん。1993年公害調停申立の際の
申請代表人5人の内のお一人です。
淡々と事件について語ってくれた石井さん。日焼けした肌に優しい笑顔。しかし瞳の奥には
長年闘い続けてきた強さをうかがえる「目力」を感じます。
事件のお話にでてくる日付や難しい法律用語も全て石井さんの頭の中に記憶されています。
長時間にわたる説明において、一度もメモをみることなく詳細に、鮮明に語る姿は
今まで何度となく語ってこられたであろう事件の重みを知ることができました。
1978年不法投棄が始まった頃、石井さんは18歳。
1993年公害調停の申請代表人になった頃、石井さんは33歳。
それから今に至るまでずっとずっと闘いは続いています。一緒に闘う住民の方の中には
事件の調査や裁判に関わるために職を失った方もいらしたそうです。
-新たなる『闘い』の始まり-
「シュレッダーダスト」の運搬と大規模な野焼き
が続く豊島に大きな転機が訪れたのは
1990年11月16日。
兵庫県警の強制調査が入るのです。
ヘリコプターが何台も島の上空を飛び交い、
多数の警察官が乗り込み事態の大きさを
物語るように、テレビではどのチャンネルでも
「豊島」の状況が報道されていました。
<地下20mまで真っ黒なシュレッダーダスト>
兵庫県警の摘発から34日後、「産業廃棄物の不法処分が行われていた」と香川県が初めて認めたのです。
12年間「合法」と言われ続けたものが34日で「違法」に変わる。
12年間「無害」と言われ続けたものが34日で「有害」に変わる。
このときの住民の気持ちを考えると胸が苦しくなります。自分の住む県は自分達に何もしてくれなかった。
そんな思いをするほど辛く、悲しいことはないでしょう。
有害物質が確認され、Mの「ミミズ養殖」の免許は取り上げられ産業廃棄物の島外撤去が命じられました。
…残念なことにこれが事件の終焉ではありません。
刑事裁判のMに対する判決は『罰金50万円。懲役10ヶ月執行猶予5年』というもの。
あれだけ多くの罪を犯し、多くの人を苦しめてきたMに対する判決がこれでした。
たった50万円。部外者の私ですら驚愕と落胆を隠せません。
なぜ?なぜ日本にはMを正当に裁く法律がなかったのでしょうか。
しかもMが豊島につけた大きな傷跡、産業廃棄物は放置されたまま。
驚くことに1993年9月香川県知事は「有害と思われるものから順次撤去を進め、概ねこれらの作業を終えた」と答弁。
『香川県環境白書』に印刷され公に「豊島事件」の終息が発表されます。
県への不信感を拭えない住民達は自分達の手で、事件の真相を突き止めるという道を選びます。
公判記録には香川県職員の供述の数々が…
中には法の抜け道をアドバイスするような内容までも記載されています。
そして供述した職員のほとんどが口を揃えて「Mが怖かった」「Mを怒らせると何をされるか分からなかった」と保身の弁を述べているのです。
暴力に屈するしかない県政。自分達の仕事の意味を本当に理解していたのでしょうか。
自分達の身を守るために、県民の生命までも危険にさらしていた県の職員たち。
悲しい気持ちと抑えようのない憤りを感じます。
公的な立場の人間が税金を使ってやるべきことは県民の安全な生活を守ること以外にはないはずです。
1993年11月22日住民は香川県に対して『公害調停』を申し立てます。
「香川県とMは共同正犯である。」
ここからが豊島住民にとって長く続く新たなる『闘い』の始まりでした。
■公害調停にすると…
・裁判より安い費用ですむ。
・裁判より短い期間で決着がつく。
などのメリットがある反面、両者の合意がないと成立しないというデメリットも持ち合わせているのです。
なんとしても香川県と同じ土俵で闘うために豊島の住民は一丸となり、さまざまな「住民運動」を開始します。
-決して負けられない『闘い』-
「県庁前立ちんぼう」「メッセージウォーク」「銀座での抗議デモ」「小豆島ローラー作戦」「県内100ヶ所座談会」
…1000人の住民で100万県民一人ずつを直接説得するという闘いのスタート。
当初は「できるはずがない」と思う住民もいたでしょう。活動をする中で心無い非難の声を浴びることもあったそうです。
無言電話や酷い言葉を投げつけられることも。
心が折れそうになった住民を支えたのは、「頑張れ」と声をかけてくれる人々の支援でした。
1999年4月には石井亨氏が県議選で7340票を獲得し当選、住民1000人余りの島から県議会議員が誕生するのです。
この快挙がどれだけ住民を勇気づけ、更に奮起させたことでしょう。
『自分たちのやっていることは間違いではない!』
頑張れば必ず願いは叶う。頑張り続ければ無理だと思う事も可能になる。
6年半、36回にもわたる公害調停を闘い続けることができた背景には、住民の強い信念とそれを貫き続けた結束力、
多くの人々の励ましがあったことでしょう。
2000年6月6日ついに調停成立の日が訪れます。住民の前で県知事が涙を流して謝罪。
待ちに待った瞬間、住民たちの頬にも涙…。長年の活動の成果がついに実を結びました。
このときの住民の気持ちは、安易に想像できるものではありません。
しかしこの時すでに、公害調停申請時549名いた申請人のうち 80名以上の尊い命が失われていました。遅すぎた調停成立。
そしてこれから始まる「産業廃棄物撤去」との長い闘い。
長く続いた闘いは新たな局面を向かえ、まだまだ長く続くのです。
全ての産業廃棄物を撤去するのに10年以上の月日と500億円を超える費用がかかると言われています。
しかし豊島住民の結束力は固く「第2・第3の豊島をつくらない」、「子供・孫の代へ負の遺産を残さない」と
新しく始まる闘いにも不退転の決意で臨んでいるのです。
-守るべき『島の宝』-
事件の概要を話終えた石井さんが連れて行って下さったのは豊島のほぼ中央に位置する標高339メートルの「壇山」。
山頂付近には椎の木々が生い茂り「トトロの森」と呼ばれ親しまれているそうです。
一歩足を踏み入れると今までの暑さを忘れるような爽やかな空気。豊かな水を含んだ土が夏の気温を涼やかにしているようです。
<ナウシカにでてくる樹海の底みたい…と石井さん>
壇山の山頂は安山岩覆われ豊島全体が「キャップロック」で形成されています。
低層地が花崗岩(柔らかい)、上層地が安山岩(硬い)のため地すべり地形といわれますが
そのお陰で美しく豊かな水が島を潤しているということでした。
「トトロの森」という意外な発言を石井さんから聞いたとき、事件の話のときとは打って変わって楽しそうな自慢気な微笑みを浮かべていたのが印象的でした。
石井さんが本当に見せたかった島の姿はきっとココでしょう。一躍「ゴミの島」として有名となってしまった故郷豊島。
彼にとってはいつまでも自然豊かな美しい島なのです。
-これからの『豊島』-
2010年7月「瀬戸内国際芸術際」が豊島にやってきます。
35年も前に役目を終えた「棚田」が芸術祭運営スタッフによって再現されていました。
それを見守る石井さんは複雑そうな表情でした。
芸術祭運営スタッフは緊急雇用対策として3年の雇用契約となっています。
芸術祭が終わり、運営スタッフが島を去った後、この棚田の運命はどうなっていることでしょう。
<瀬戸内国際芸術祭に向け棚田復活中…>
1975年の豊島事件発端から約35年。
公害調停申請時549名いた申請人のうち 213名が他界。
高齢化が進む豊島で事件の当事者として、今尚、闘い続け、真実を語り続ける石井さん。
住民たちが求めてきたものは決して豪華で豊かな暮らしではない。
ただいつもと同じように自然と共に自分たちらしく生きていくこと。
そしてそれが本当の『豊か』な暮らしであることを知っているからこそ、守りぬくために
どこまでも強くなれたのではないかと思うのです。
自分の大切なものを守るために気の遠くなるような長い時間、闘い続けることができる強さ。
これからも続くであろう闘いにも向かっていく覚悟を持った強さ。
真剣に、時にはにこやかに事件の真実を語り続ける石井さんの中に、計り知れない『強さ』を感じます。
豊島を訪れる前に感じていた不安はキレイに晴れ渡り、インターネットや書籍だけでは知ることができなかった事件の真相を
石井さんの口から聞けたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
『私達にできることは何でしょう。』
…と聞いたとき「またいつでも豊島に遊びに来てください」と言ってくれた石井さんの笑顔がとてもステキでした。
この日見たこと、感じたことを忘れることなく私自身も大切なものを守れる『強さ』をもった人間になりたい。
そう感じたKNSin四国の2日目でした。
豊島年表(詳細版)
1975年 12月15日 豊島総合観光開発株式会社の経営者Mが【有害産業廃棄物処理許可申請】を香川県に提出
1976年 高共丸事件
1977年 2月15日 香川県知事による豊島訪問(Mの申請を許可するための訪問)
↓
離県決議(香川県をやめて岡山県になりたい)
住民500人余りのデモ
6月28日 583人(所帯主のほとんど全員)が原告となり
Mを相手方とし「廃棄物処理場の建設差止請求起訴
8月2日 Mが原告の一人に暴力をふるい暴行傷害罪で現行犯逮捕
9月16日 許可申請内容を「有害産業廃棄物の運搬・処理」
↓
「無害物によるミミズの養殖」に変更
※無害限定4品目(製紙汚泥・食品汚泥・木くず・家畜の糞)を持ち込みミミズに食べさせる。
育ったミミズは養殖用のエサ・釣り餌として販売する、というもの。
1978年 2月1日 裁判中にも関わらず「ミミズの養殖」を許可
10月19日 香川県からの強い説得により和解
◆ミミズの養殖は畜産業の一種であり、環境破壊や健康被害をもたらすはずがない。
◆県と住民が力を合わせて監視に当たれば問題なんかおきない
◆許認可権者は香川県である。この島に住むあなた方住民がどんなに反対しようとも法的には絶対に止められない
1983年 Mが中古カーフェリーを購入。今までダンプカーで運んでいたゴミの運搬量が激増。(数百~数千t)
大量の野焼きが始まる。(シュレッダーダスト・ドラム缶に入った液状物)
1984年 住民が香川県に対して「公開質問状」を提出
↓
回答までに半年
◆現場で行われているのは「ミミズの養殖」である
◆金属回収業も行われており、これは廃棄物の取扱いではなく誰でもできる事業である
◆どちらも合法であり安全である
1990年 11月16日 兵庫県警が豊島総合観光開発株式会社に強制捜査
<我国最大の不法投棄事件(46万t)
↓
34日後
◆Mが行っていたのは金属の回収ではなく廃棄物の不法処分である「第一次行政措置命令」
兵庫県警科学捜査研究所の分析により、多種多様な有害物が検出
12月28日 豊島総合観光開発株式会社の許可取消
1991年 1月 Mが兵庫県警に逮捕される
7月18日 Mの判決「罰金50万円、懲役10ヶ月執行猶予5年」
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香川県に対して「Mを強力に指導して撤去を実現させること。
それができな場合には行政代執行を用いて香川県が自ら撤去を実現し、この費用をMから徴収すること」を申し入れ
1993年 9月 香川県知事が「有害と思われるものから順次撤去を進め、概ねこれらの作業を終えた」と県議会で答弁。
↓
「香川県環境白書」に明記される。
11月11日 豊島住民は香川県に対して【公害調停/住民549名】
「香川県とMは共同正犯である。香川県とMそして排出事業者の協力を得て廃棄物を撤去せよ」
◆産業廃棄物を撤去せよ
◆損害の賠償として申請人各自に50万円を支払え
12月20日 ☆県庁前立ちんぼう開始
1994年 【第1回公害調停】~【第7回公害調停】
5月2日 ☆メッセージウォーク開始
12月20日 国による実態調査開始
↓
専門委員が実態調査の中間発表
産廃の量は県発表の3倍以上、約50万t
1996年 【第8回公害調停】~【第13回公害調停】
2月26日 住民245人が豊島総合観光開発株式会社を相手に撤去と損害賠償裁判を高松地裁に申し立て
7月3日 環境保護団体グリーンピースが来島
「ゼロダイオキシンキャンペーン」の出発点
8月4日 厚生大臣が豊島訪問「想像を絶するひどさである」
9月20日 ☆銀座で抗議デモ
11月24日 中間処理受け入れを『涙をのんで決議する』
「有害物を他の地域へ持ち出すことは他の地域にも迷惑がかかることになるので、豊島で中間処理を行い、無害化して島外へ撤去
することを選択」
12月26日 高松地裁で豊島総合観光開発株式会社に対する裁判で住民側が全面勝訴
1997年 【第14回公害調停】~【第18回公害調停】<住民と排出業者3社の間で初めて調停成立>
2月6日 高松地裁がMに対する代替費用前払いを命じる(151億円)
3月17日 高松地裁で豊島総合観光開発株式会社とMに破産宣告
4月6日 住民大会
「県が責任を認め、謝罪するならば「損害賠償請求権」を放棄する」
4月15日 住民、県に撤去を求める7万人署名提出
6月26日 「住民の運動は根無草」発言
↓
小豆島ローラー作戦
7月18日 中間合意成立
県はようやく責任を認め、廃棄物撤去が見えてくる
1998年 【第19回公害調停】~【第34回公害調停】
7月15日 「豊島の心を100万県民に」
1000人の住民で100万県民を一人ずつ直接説得する「100ヶ所連続座談会」
1999年 【第35回公害調停】
1月31日 豊島3自治会が処分地を買い取る
3月7日 100ヶ所連続座談会達成
4月11日 県議会で石井亨氏当選(7340票)
2000年 5月26日 【第36回公害調停】<事実上の調停成立>
6月3日 豊島宣言
6月6日 調停成立、豊島小学校体育館(700名近くが参加)
県知事が住民の前で涙を流して謝罪。
「これからは力を合わせて廃棄物の処理に挑もう」
「怨念から希望へ。第2・第3の豊島をつくらない」
2003年 処理施設の建設
2003年 9月18日 本格操業開始『10年間で全ての廃棄物及び汚染土壌の処理を終える』
↓
本格的な掘削を始めると調査と実態がかなり異なる事が判明
2004年 1月 溶解炉爆発事故
↓
原因の特定と回収に3ヶ月
2009年 12月 全体量(66万8000t)のうち53%の処理を完了
(この処理に要した時間は6年8ヶ月)
2013年 3月末 すべての処理を完了予定