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父の口癖 ~金融業界を卒業して~

中村 勝彦 (国立学校法人岩手大学 客員教授)  Vol.710

2024年6月28日、地区を代表する総代と言われる方々含め約100名の前で退任挨拶を行い、花束をもらい、総代会を途中退出、誰の見送りもないまま家路につきました。職員は業務中であり、総代会は退任儀式後に新任役員選出等の議案があったことから、仕方ないとはいえ、6年半務めた最後の日がこんなものかとちょっと寂しい気持ちと、反面すっきりした気持ち、そしてこれから自分はどうするかなという気持ちとがないまぜになり、この日の晩は数人と呑んだものの、どんな話をしたかは余り記憶がありません…。
1986年に金融界に入って以来、38年3ヵ月。金融界にいた自分の最後の日は、余りにもあっけなく、こうして終わりました。
大学では、当時はあまり役に立たないモンゴル語を専攻、体力、笑顔以外に何も取柄もなかった私は、ともかく動こうと就職活動を必死に行いました。60社ほど訪問した結果、奇跡的に、今は業態が消滅した長期信用銀行系の銀行に入行。以来、世の中のダイナミックな動きの中に放り込まれ、まさに激動を経験してきました。思い出すだけでも、バブル崩壊、その後始末、銀行の破綻、国有化、IT企業等による銀行買収、その後の外資系への売却、リーマンショック、他行との合併騒動(実現せず)があり、その間、胃が毎日キリきり痛むような本部の仕事、収益目標に達しないと『FIRE』と言われる部署に属した経験をし、その後支店長として赴任した3店舗がいずれも移転・開店があり、そして東日本大震災、突然の出向、銀行退職、ゆかりの無い地域の金融機関トップ、経営の苦悩、関係機関との命を削るような交渉、そして冒頭お話しした退任という結果等々、その一つ一つが長い物語となるようないわば痺れる場面を何度も何度も経験してきました。
社会人最初の6年間を除けば、仕事環境は、平穏な状態ではなく、常に戦場といえるような状況にいて、今ここで決断しなければ、悪い方へ動くという局面に何度も立たされました…。この間のドラマなような話は、お会いした時にじっくりお話しするとして、とにもかくにも61歳で退職となった時、皆さんならどうされるでしょうか。
ご存知の通りマグロ体質の私は退任の次の日から動き回りました。退任までは最後まで走り抜き、就活は一切しないと決めていたので、それこそ必死でした。
結果として、7月17日に『中村正價堂(なかむらしょうかどう)』という会社を立ち上げました。また、いろいろな方にご心配を頂き、ありがたいことに東京、大阪、名古屋の数社から、役員や顧問のお仕事を頂きました。私が最も大切としてきた『ご縁』を正に実感した1ヵ月でした。
『中村正價堂』は、1872年(明治5年)、京都の繁華街、新京極通のど真ん中に、高祖父が開店した洋品店の屋号です。新京極通は天皇陛下が東京にお移りになられた後の京都の活性化を目的として、当時の植村府知事が、付近にあった社寺の参道を商店街として整備したといわれています。
近江から出てきた先祖が、どうして京都の繁華街のど真ん中に進出できたかは定かではありませんが、幕末から明治にかけての混乱期に洋装、洋品を取り扱う商店を開いたという勇気と商才を持っていた高祖父、そして養子でありながら京都の代表的なお店として発展させた曾祖父には、商売人としての感覚や決断にずっと畏敬の念を持っていました。
一方で、商売を潰した祖父は私の生まれたころから、隠居?的な生活をしていました。私は母方も商家出身なので、双方の親戚たちも皆忙しく商売をしている中、幼いながらもその生き方に?の連続でした。父は、高度成長期の典型的な会社員。祖父の債務整理をし、会社勤めをしながら淡々と残債の返済をしていました。
父の口癖は「しゃーない」(仕方がない)でした。母が愚痴ろうと、理不尽なことが身に降りかかろうと私が『何で?』と聞くと、必ず最後に返ってくる言葉は、『しゃーない』でした。恐らく、父は『しゃーない』という言葉で自分の気持ちを抑え、説明出来ないことを飲み込んでいたのだろうと長年ずっと思ってきました。隠居的な生活をしている祖父を他所に、まだ存命だった高齢の曾祖父は家計の足しになるように内職をしていました。また、父は父で淡々と債務返済をしていました。祖父とは違う対照的な二人の姿を見て、私はいつかこの家を再興しようと思うようになりました。
就職活動時、父に『京都に残って何か商売するほうが良いか?』と尋ねたところ『商売は難しい、それより世界を飛び回れ』と言われました。いろいろ思うことはありましたが、就職するならば、商社か銀行に行き、経済や法律の知識を得て、どちらかに行ったとしても途中で辞め、商売を興そうと秘かに考えるようになりました。
月日が流れ、常に戦場のような職場にいた私は、この思いがありつつも『今は…』とか『部下がいるから…』とかいろいろなしがらみを理由に思い切ることが出来ませんでした。優柔不断な自分の弱さだったと思います。
金融人生最後の1年半はいわば理不尽なことがたくさん起こりました。ここで話すことはしませんが、人生の中でも一番苦しい時期でした。振り返ってみると私がこの時期を説明する言葉は、父がよく言っていた『しゃーない』だけだなと気付きました。苦しい時期を卒業し、自分がこのような状況になって、父の『しゃーない』は、過去を振り返っても仕方なく、前を向いて進めと自分に言い聞かせていた言葉なのだと初めて気付いたのです。父は野球が好きで『あと一勝で甲子園だった』とよく話をしていました。娯楽や酒はあまりせず、仕事ばかりの人生でしたが、借金を全額返済し、東京と京都に家を建て、我々3人の兄妹をきちんと育ててくれました。
立派な父親でした。高祖父、曾祖父、祖父、父と先祖のそれぞれの思いがあり、私があります。先月、清水寺の東にある墓に会社設立の報告をしに行きました。先祖は何を思ったか気になるところですが、これから『中村正價堂』で再出発です。
私の好きな言葉に『縁尋機妙 多逢聖因』があります。『良い人に交わっていれば良い結果に恵まれる。良い縁はそれを真剣に尋ねていくと、不思議なくらい絶妙の機会によって縁が縁を導いてくれる』との意味ですが、私の人生は正しくこのご縁によって生かされてきました。父親の口癖であった『しゃーない』と思われる経験を活かし、併せてその前向きな精神を引き継いだ上で、皆さんとのご縁を大切にしながら、これからの会社経営をしたいと思います。これからも宜しくお願いします。

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