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縁尋機妙 多逢聖因 – 転換期にあたって –

中村勝彦 (あおぞら銀行)  Vol.338

中村勝彦

あおぞら銀行の中村です。支店移転という大仕事も終わり、そろそろ第二の人生を模索していく時期になってきました。
思い起こせば、銀行で培った知識を元に、祖父が潰した商売を再興しょうと思っていたにもかかわらず、銀行に30年余も従事、我ながらびっくりする年月が経ちました。
最初の四年間は大阪支店。新人でいきなり担当先を持たされ、東大阪、堺、神戸、姫路等の、鉄鋼や機械、部品の製造業担当。油と汗の匂いのする工場の事務所に通いました。手形のイロハ、資金繰り等、取引先の経理の方が、熱心に教えてくれました。

東京に転勤となり、公共セクター担当。上場したてのJR各社、膨大な債務があった国鉄清算事業団、ダムや住宅を造る各公団、変わったところでは、東京湾横断道路を担当。
海の中のトンネル、途中(海ほたる)からの浮上、橋の建設…。自分が貸出したお金が形になっていく様を目の当たりにして、この職業の醍醐味を知りました。
バブルとは無縁でしたが、その後、ゼネコン、不動産業を担当、バブル崩壊後の後始末、業界衰退と銀行の凋落を肌身で感じながら、ぎりぎりの交渉、数千億円の貸出金の行方を一人で担当する緊張感、また、違った意味での醍醐味を知ることになりました。
そして、初めての課長となり、個人部門の池袋支店へ。毎日すぐに成果が出る仕事に楽しみを覚え、仕事も充実していましたが、銀行がついに国有化、破たん…。親密な取引をしていたお客様が、血相を変えて窓口に来られる様子を見たり、親しいお客さんから「嘘つき…」と怒鳴られることを経験し、信頼、信用の脆さ、大切さを学びました。
国有化から二年、新しい銀行づくりのため、部長以下4名の特別チームに招集され、そこから二年間、大株主との折衝、個人、事業法人、金融法人三部門の国内営業の決裁をやることになりました。今、振り返ってもこの時期に一番仕事をしました。
夜中まで仕事をし、タクシーで帰宅し、3~4時間寝て出勤する…毎日そんな生活が続き、点滴を打つこともありました。新しい銀行を作ることの使命、信頼を回復しなくてはとの思い、そして公的資金投入していただいているとの申し訳なさ、等々、いろいろな思いが錯綜しながらも、前だけ向いて仕事をしていました。
その後、古巣の不動産、ゼネコン担当部署を経て、マーケティング部へ。
そのころ、株主が日本企業から外資となり、外国人が行内を闊歩、自分の周辺でも、ドラマの半沢直樹以上の事態が日常的に展開されていましたが、そんな時に創設されたのがマーケティング部でした。いろいろな得意分野を持つ人が集められ、全国各地に飛んで、商材を探してくるよう指示が飛び、一人数億円の収益目標が与えられました。
この様な部署は、今までどこの銀行にも無く、様々な思いもありましたが、思いを口にする余地もありませんでした。目標はともかく、人との繋がりだけを大切に、結果は気にしないと仕事を始めました。かつて担当をしていたゼネコン、不動産の方々に、全国の支店の方々を紹介してもらい得意とする不動産の開発案件を探して走り回りました。
東京、大阪はもとより、広島・福山、札幌・琴似、松山、門司、金沢、等々、土地の話からテナント探し、建設まで、プロジェクトをやるごとに本当にたくさんの地域に行き、人と繋がっていきました。このころから、その地域の方の話や思いを聞き、箱モノではない、地域のあり方、地域の発展とは何かを考えるようになりました。
その後、仙台支店長となり、東北6県を担当、東日本大震災もあり、その思いがさらに強くなりました。(東北への思い…コラム 2013年03月13日:Vol.155 ご参照下さい。 )
梅田支店では、KNSの方々との出会い、そしてクリエーターさんとの出会いと新たな
分野の方々との出会いが、人生の幅を広げ、刺激を与えてくれました。
さらに、名古屋支店では、立ち直ってきた東北の企業と名古屋とをつないでいくうち、新しい出会いが生まれています。思えば、いつも出会った方々に助けられてきました。
私は、縁尋機妙 多逢聖因(えんじんきみょう たほうしょういん)という言葉が
好きです。『良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙なるものがある。
良い人に交わっていると良い結果に恵まれる。』というような意味ですが、歳と共に、良いご縁がどんどん増えていっているという実感があります。
奇しくもあと数日で54歳。転換期に差し掛かりました。この時期にコラムを頼まれるのも、何かのご縁かと思っています。ご縁を大切に、第二の人生で当初の夢を追うか、じっくり考えていきたいと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

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