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丸3年が経過した教員生活と「復興陸前高田 ゼロからのまちづくり」の出版と・・・

長坂泰之 (流通科学大学商学部)  Vol.606

長坂泰之

KNSの世話人のひとり流通科学大学の長坂です。コロナ禍ですっかりご無沙汰している方もいらっしゃいますが皆様お元気でしょうか。
今回は、この4月で丸3年が経過した大学での教員生活のこと、そしてこの3月31日に出版した「復興陸前高田ゼロからのまちづくり」のことを、四方山話的にお話しさせていただきたいと思います。
大学を卒業してから独立行政法人中小企業基盤整備機構(中小機構)で30年余り働き、3年前に神戸市にある流通科学大学に転職しました。関西でいよいよKNSの活動ができると思った矢先のコロナ禍でした。3年間で毎年講義方式に変更となるなど、振り返ればバタバタとした3年でした。

流通科学大学では、これまでの経験を活かし、『流通政策』、『流通関連特講』、『中小企業経営論』、『ベンチャービジネス論』などを担当しています。このうち、『流通政策』は、中小機構時代に、中小小売業政策、中心市街地活性化政策に長年携わったことから、この分野で採用していただきました。『中小企業経営論』は中小企業診断士としての中小企業支援の経験、『ベンチャービジネス論』は大阪勤務時代に関西の10カ所のインキュベーション施設の運営担当をした経験や中小企業大学校関西校勤務時代に『ベンチャー支援研修』を担当した経験が生きています。
因みに、私は内閣府から『地域活性化伝道師』の名前をいただいています。そのきっかけは、1990年代の英国中心市街地再生の取り組みと同様に、孤軍奮闘している『個』や『地域』を繋ぐことにより、信頼できる関係性を構築する仕組みを日本にも導入したことが評価されたのですが、その時にKNSからもたくさんのヒントをいただきました。そのKNSとは中小機構時代に大阪に勤務した14年前からのご縁になります。
大学での最も充実した科目はやはりゼミナールです。学識としての実績よりも現場での実績が勝る私は、『現場力』で勝負するしかないのですが、毎年一定の人数の学生が応募してくれて、真剣かつ楽しくゼミ活動をしています。そういえば、この3月に卒業したゼミ生の一人が、ゼミも含めての活動が評価されて総代に選ばれ、卒業生を代表して答辞を読みました。私の学生時代には無縁でしたが、我が子のように嬉しかったです。学生の成長を目の前で見ることができるのが、大学に転職して一番よかったと思える瞬間と言っても過言ではありません。

さて、話は変わり、今年3月31日に鹿島出版会から「復興陸前高田ゼロからのまちづくり」を出版させていただきました。ちょうど出版のタイミングで機会をいただきましたので、このことについても触れたいと思います。
私が陸前高田市(りくぜんたかた、以下、高田)と関係ができたのは、2011年3月11日に東日本大震災が起きた翌月の4月下旬のことになります。それまで三陸には、中小機構時代の同期の結婚式で宮古に行っただけ。高田には行ったことがありませんでした。
高田には、中小機構の融資した地元のショッピングセンター「リプル」がありました。4月下旬に被災状況の確認で訪問した私は、津波で跡形もなくなった「リプル』と対面しました。現場で代表者の伊東孝さん(当時商工会副会長、現会長、伊東文具店経営)とお会いし、被災時の状況を初めてお聞きし、跡地に放置されていたランドセルを見た時は、言葉では言い表せない悲しさが込み上げてきました。

その後、1年半ほど空いて再び高田を訪れることになります。実は、当時の私の上司がKNSの世話人のひとり吉田雅彦さんでした。吉田さんが、私が商業機能の復興のために動けるポストを作ってくれて、それから私の商業復興の支援が本格化することになります。
高田を再び訪れ、商工会で中小機構の役割とともに、復興に対する私の基本的な思いを話す機会をいただきました。当時の被災地には多くの支援者が薔薇色のプランを片手に「営業」を展開しており、高田でも同様の「営業」が来ていたそうです。複数の商業者に言わせると、私の話は「営業」とは真逆だったようです。それは、過去にお手伝いをした阪神・淡路大震災、新潟県中越地震の商店街復興支援の経験から、とても薔薇色の話はできなかったのです。一方で、宮崎県日向市の中心市街地の再生に携わった経験から、官民が連携することにより納得性の高いまちづくりの可能性についても示しました。これらの話が結果的に信頼感に繋がり、その後、隔週で高田の復旧、復興のために訪れることになり、いつしか訪問日が「長坂Day」と言われるようになりました。
しかし、実際に現場に入ると、官民の連携の糸口が全く見えない状況でした。あとから聞いた話ですが、高田は過去数十年にわたり官民が連携しているとは言えない関係だったようです。そんなことを何も知らされていない私は、「このままでは不満、不信が残る復興になる」という直感を信じて、水面下で頻繁に内閣府から出向されていた久保田副市長(現掛川市長)の副市長室に通い、「民間の動きが市の足を引っ張るものではない」という情報を流し続けました。一方で、民間にも「従来の『陳情』と言う姿勢ではこの復興はうまくいかない、『連携』と言うことを意識しましょう」と言い続けました。
この流れは私だけで作れたわけではありません。当時、市役所の課長補佐の阿部勝さんと元阿部さんの上司で商工会事務局長の中井力さんも同じ思いでした。その後は、この二人と情報共有を図りながら、官民連携・公民連携の復興の実現に奔走しました。「結果的に仲間はずれを作らない」官民連携のまちづくりで高田の復興は進められました。それは阿部勝さんをはじめとした市役所が民間の意見を幾度となく聞き、最大限計画に反映させたから勝ち得た信頼だと思います。そんな貴重な現場を共に歩ませていただいた私の送別会の写真が私は大好きです。市長と商工会長が場末の居酒屋で一緒になり、市役所、商工会、商業者の皆さんが私の送別会を催してくれたときのものです。

さて、震災から10年近くが経過するころ、「長年中心市街地の再生の仕事をしてきたけれど、本当の意味で官民が信頼関係を保ちながら再生を果たした地域は希少であり、高田の取り組みは絶対に文字として残す必要がある」と私は思い出しはじめました。
私の私利私欲の提案であったら、この企画は実現しなかったかもしれません。現場で一緒に苦楽を共にした仲間としての考えを、阿部勝さんも受け止めてくれました。そして、ハード系の中井検裕正先生、市役所の永山悟さんの4人が編者となり「陸前高田復興本」の制作がスタートしました。そして、遂に今年の3月31日に「復興 陸前高田ゼロからのまちづくり」を出版することができました。震災から11年の歳月が経過していました。
この本の最大の特徴は、高田の10年間の復興の軌跡を、ハード、ソフトの様々な現場からつぶさに記録した点です。先月4月17日に6段記事で三陸の地元新聞社の東海新報さんに掲載され、そこで「行政、支援機関、民間、UR、JV、学識らが多角的に捉えて一冊にまとめた本は他の被災地には例はない」と紹介していただきました。まさに本書を企画した狙いはそこにありました。

今年9月には長坂ゼミナールのゼミ生15名とともに、高田を訪問し様々な学びを得る機会をいただきました。高田とそんな関係になれたことは本当に幸せなことだと思います。
最後に、津波被災地の最大の課題は、嵩上げした市街地の未利用地問題です。私は、この根本的な要因は、ハードの復興に関して地元の財政負担が全くない仕組みであると思っています。復興と言う車にアクセルはあるがブレーキがない状態であったために、過大と思われる事業を止めることができませんでした。嵩上げ地を整備する費用、未利用地の維持管理の費用もすべて税金です。税金は湯水のように沸いてくるわけではありません。将来、薄く広く私たちの子孫が負担しなければならないということも考え、ブレーキも踏める仕組みが必要と思います。
このように復興市街地には課題も存在しますが、高田をはじめ東北三陸はどこも心の温かい方々と新鮮な海の幸の宝庫です。関西からは伊丹空港と神戸空港から飛行機も飛んでいます。是非、東北三陸に足を運んでいただき、お金を落としていただければと思います。そして、高田の復興の軌跡について少しでも興味がある方は、是非、拙著「復興 陸前高田ゼロからのまちづくり」をお買い求めいただければ嬉しく思います。

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