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かぬまシウマイ

崎陽軒 初代社長 野並茂吉のふるさと鹿沼をシウマイの街に!

水越 啓悟 (鹿沼商工会議所)  Vol.755

 私の住む栃木県鹿沼市は、東京から約100km、関東平野の北限に位置し、南東部の平地に市街地が広がり、多くの人々が暮らしています。一方、北西部の約70%を前日光県立自然公園の豊かな山林が占める、自然と生活が調和したまちです。周辺には、北に世界遺産日光東照宮を擁する日光市、東には県庁所在地であり東北新幹線が通る「餃子のまち」宇都宮市、南には小京都と称される「蔵のまち」栃木市があります。交通の便も良く、JR日光線の鹿沼駅や東武日光線の新鹿沼駅に加え、東北自動車道鹿沼ICもあり、都市圏へのアクセスにも恵まれた立地です。

 鹿沼のまちの成り立ちは、江戸時代に日光東照宮の造営のために集められた職人たちが、雪の少ない平地で暮らし始めたことに端を発します。その後、日光例幣使街道の脇街道沿いに宿場町が整備され、行き交う人々が立ち寄ることでまちが集積し、賑わいを見せるようになりました。

 鹿沼は木工を中心とした職人気質を基盤として、明治期には殖産興業政策のもと麻繊維産業が大きく発展しました。戦時中には、群馬県太田市の中島飛行機の下請けとして航空機部品の製造も行われ、スタジオジブリの宮崎駿さんのお父さんと伯父さんが経営していた宮崎航空製作所が鹿沼にあった縁から、宮崎駿さんも幼少期に戦火を避けて鹿沼に疎開されていたことがあります。

 終戦後は、首都圏の住宅復興に伴い需要が高まった障子やふすまといった建具を、豊かな山林資源を活かして大量に生産しました。この流れは今も受け継がれており、伝統技術と最新加工技術を併せ持つ「木工のまち」となりました。

 また、1970年代になると、鑑賞用のさつき栽培に適した排水性の高い鹿沼土の産地として脚光を浴び、現在では全国各地から園芸用の資材が集まり、多様な培養土が加工される園芸用土の一大産地ともなっています。さらに近年では、医療・航空分野を始めとした微細加工のまちになり、時代とともに変化し続ける「ものづくりのまち」として新たな地位を築いています。
鹿沼市は長年、災害の少ない土地と言われてきましたが、2011年の東日本大震災からの放射能問題、2013年の突風、2014年の大雪、2015年の100年に一度の集中豪雨、2019年の台風19号による激甚災害と災害が相次ぎ、そして2020年には、世界的なパンデミック、新型コロナウイルスが生活を一変させました。コロナという言葉を初めて耳にしたのは、2019年の年末。2020年の年明けには、もはやその言葉を聞かない日は無くなり、国内でもインバウンド観光のバス運転手の感染が報じられるなど、状況は日々深刻さを増していきました。濃厚接触者という耳慣れない言葉も、あっという間に日常語となりました。

 それでも当時はまだ、「出かけられなくならその前にどこかへ行こうか」などと考えていたくらい、のんきな気持ちでいたのです。
しかし、コロナが本格的に日本に上陸したと強く感じたのは、2020年1月20日に横浜を出港し、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄を巡ったのち、2月3日に横浜へ帰港したクルーズ船(ダイヤモンド・プリンセス号)での集団感染が明らかになった時でした。乗員乗客は約3,700名。全員が下船したのは3月2日で、それまでの約1か月間、連日報道され、未知の感染症によって多くの方が命を落とす、痛ましい出来事となりました。

 そんな中、あるニュースが目に留まりました。「2月12日、崎陽軒のシウマイ弁当4,000食がクルーズ船に届けられた」というものでした。
私が心を動かされたのは、「4,000食の弁当が食べられたのかどうか」という点よりも、「こんな時にこんなことする会社が、こんなことができる会社がある」ということでした。コロナの流行により人の往来が激減し、新幹線の車内でシウマイ弁当を広げる光景も見られなくなりつつあり、今後どうなるかも分からない状況でした。それでも崎陽軒は、クルーズ船の乗員乗客に4,000食の弁当を届けました。

 その崎陽軒の初代社長野並茂吉さん(1888年〜1965年)は、鹿沼市北西部の加園地区の出身です。茂吉さんの自叙伝「シウマイ人生」によると、裕福だった生家は父の代で傾き、茂吉さんは幼くして生家を離れ、各地を転々とした末に横浜へたどり着き「横浜に名物を」との想いで、冷めてもおいしい独自レシピの「シウマイ」を開発し、やがて「横浜といえば崎陽軒のシウマイ」と言われるようになる、同社の礎を築きました。
茂吉さんは鹿沼訛りで「シュウマイ」を「シーマイ」と発音していたそうですが、それを聞いた当時の中国人スタッフから「中国語の発音に近い」と褒められ、「ほら見ろ、中国語ではシウマイと言うんだ。うちはシウマイでいこう」と宣言したという逸話も残っています。関東大震災や戦争で事業を何度も失いながら、そのたびに立ち上がり、時代を切り拓いてきた茂吉さんの姿に、現代にも通じる強さと志を感じました。

 私自身は2020年の春先、コロナの感染拡大により行動範囲は大きく制限されながらも、休日には自転車で鹿沼市北西部に広がる1,000m級の山々へ出かけ、例年と変わらぬ春の自然を楽しんでいました。その帰り道、茂吉さんの生家付近にも何度か立ち寄りました。4月になると、緊急事態宣言が発出され、社会全体がにっちもさっちもいかない状況になりました。鹿沼市内の病院から「使い捨て医療用ガウンが無くなり何とかして欲しい」という要請を受け、商店主の皆様の力を結集し、旅行代理店の店頭を借り受け、寄贈頂いた農業用資材で使い捨て医療用ガウンを大量生産し納品したり、飲食店のテイクアウトメニュー導入を進め、情報発信するなど試行錯誤を繰り返していた時期です。そんな中、私は2か月間温めていたある企画書を、調整を重ね崎陽軒にメールで提出しました。それが「鹿沼市をシウマイのまちにする」という取り組みのスタートでした。

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