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口頭伝承のタイムリミット

久保信一 (オフィスしのも)  Vol.573

久保信一

父が今年の5月で満90歳になった。
高齢のために体調を崩して危ない時が幾度かあったものの主治医も驚く回復力でその都度復活。
今も実家で元気に生活をしている。
日常生活ではオカズの段取りはこちらでしなければならないものの、ご飯は電子炊飯器をい使って自分で炊き、電子レンジで大好きな酒の熱燗もお手のもの。
コロナ禍を恐れて暫く外出は控えていたのだが、昨年後半から通い始めた週二回のデイサービスにも欠かさず出向き、風呂を堪能してランチに舌鼓をうち、そして年寄り同士での大好きな将棋を楽しんでいる。
「勝敗はどうなん?」
と訊いたら、
「またワシが勝った。相手が弱いんじゃ。」
と憎まれ口もたたく。

ホントは負けているのかも知れないが、そのあたりは年寄りのこと。
本人のプライドもあるのでそれ以上は突っ込んで訊かないことにしている。
昭和20年代の終り、肺を患って養生した後大学進学のために20歳のときに岡山県都窪郡山手村(現総社市)から大阪に出てきた。
以来70年。
人生のほとんどを大阪で暮らしているにも関わらず未だに出身地の岡山弁が抜けないその強情さが生命エネルギーの潜在的な源になっているのか。
「もしかするとジジイは100歳になっても生きてるかもね」
と家族では話をしている。
まあボケさえせずに元気にしていてくれると、それはそれでありがたいものだ。

この父の世代は一般に昭和一桁世代と言われている。
ルパン三世の銭形警部の世代だ。
映画「カリオストロの城」ではるばる欧州まで部下を従えて警視庁のパトカーでやってきた銭形警部を「さすが、昭和一桁世代。仕事熱心なこと?」と双眼鏡を覗きながらルパンが言う。
そんなセリフがでてくるくらいに働くことが熱心な世代なのだ。
戦前は戦争に勝利することを頑なに信じていた情熱的なティーンエイジャーであり、負けた戦後はその悔しさをバネにして若いエネルギーを国の復興と経済の勝者となるべくしゃかりきになって働いた世代でもある。

そして同時に令和の今、先の大戦をリアルに記憶している最後の世代ということもできる。

夏になると終戦記念日があることから太平洋戦争の話題が取り上げがれることが多くなる。
広島、長崎の原爆の話題はもちろんのこと東京、大阪など大都市の空襲。
沖縄戦。
南洋の島々で展開された米国との死闘。
特攻隊の話。
などなど。
最近になって発見されたというような資料が紹介されるのもこの時期だ。
しかし私の父の世代がいなくなればこれらの話は教科書や歴史書、博物館の世界になってしまう。
リアルな空気を持って「事実」を伝えることはできなくなるのだ。
たとえば、出てきた資料を補足できるところがあったり、間違ったところがあったりしても指摘することができる世代がいなくなってしまう。

この貴重な経験と記憶はどうなってしまうのか。
その時を知っている人がいるのといないのとでは雲泥の差がでてくるのも間違いがない。
語り部育成や証言ビデオのアーカイブ化といった取り組みがある。
でもこれらはある程度は有効かもしれないが、実際の体験を直接聞くリアルさはない。
ひとつ間違えれば曲解したり、あるいは脚色されて伝えてしまうという危険性も含まれているだけでに注意が必要だ。
さらに付け加えれば発信される側の都合でアレンジされた歴史が喧伝される危険性はより高まる。
突出した特別な事例だけを多くの出来事のように伝えてしまう。
ある目的を持って世論操作を試みる、など私たちが日頃接する疑問の数々にはそういう事例がすくなくない。
でも「そんな事実はなかったですよ」と実際にそこにいて体験していた人々に否定されることも昨今は頻繁に見かける。

昭和30年代末生まれの私は父や母、叔父や叔母、或いは小学校の先生から戦前、戦中の話を聞く機会は少なくなかった。
当時の生活風景や空襲を中心にした戦争体験の話だ。
とはいえ父は岡山の農村地帯出身で戦中の母は実家の事情で大阪和泉市の農村部に女中奉公に出されていたのでふたりとも直接の戦争体験は少ない。
それでも兄弟は出征し、学徒動員され、あるいは空襲に遭遇した。
ティーンエイジャーだった父も海軍少年航空隊に志願した。
しかしこれは肺の病のために乙種合格で不採用。
だから二人をはじめ親類縁者の話す生のエピソードは血のつながった身内の言葉だけに説得力がある。
そしてそれらにはテレビのドラマや特番、新聞記事、学校の授業で学習する戦争や時代風景とは異なるという大きな特徴があった。

真珠湾での開戦のニュースが伝わった日、テレビドラマでは多くの人が開戦賛成で必勝を信じていたというようなことが描かれている。
しかし父の話は違った。
「わしゃアメリカとの戦争が始まったというのを聞いて家に走って帰って『アメリカとの戦争が始まった、言うとるが、こりゃ絶対勝つで!』と言うたら親父(=私の祖父)が『あほう、アメリカと戦争して日本が勝てるわきゃなかろうが。子供と大人が喧嘩するのと同じじゃ』と叱られた。わしゃ『そんなことを言いようたら憲兵が来て叱られるがぁ』と食って掛かったんじゃが、親父が正しかったのぉ。」
と。
私はまさか自分の祖父が戦争に反対はしないまでも否定的な意見を持っていて、それを小学校4年生の自分の息子に話していたとは思わなかった。
そして普段はメディアを通じてしか知ることのなかった「あの時の空気」を自分の身内から直接聞くことで初めてそれがリアルなものとして迫ってきたのだ。
そういう考えをもって世間を見つめていた一般農家の主が岡山という地方に住んでいた。
それが自分の祖父であったということに驚きを感じたのだ。
他にも家族としての多くのエピソードを父や伯父、伯母たちから聞くことになった。
父の兄である三男の伯父がフィリピンのレイテ島で戦死したという報が届いた時の祖父の様子や、終戦後すぐにその叔父とつきあいのあったという女性が祖父を訪ねてきたという話。
新型爆弾で大変なことになっていると聞いて広島の実家へ帰った放射線のことなど全く知らなかった伯母からの話などなど。
ドラマではない深くリアルものとして私の記憶に残ることになった。

リアルと言えば一般に語られている状況と大きく乖離した事実も身内の口を通じて知ることになった。
20年ほど前に母のすぐ上の伯母が亡くなったときのこと。
親戚一同で食事をしていると昔話になった。
きっかけはなんであったのか失念してしまったが母の2つ上の長男である昭和2年生まれの伯父が戦中の堺市内のことを教えてくれた。
「戦時中言うても空襲があるまでそんなにひどいことはなかったんやで。食べもんは普通にあったし。アイスクリームが欲しかったら近所のお菓子屋へ行ったら売ってたんやから。今と変わらへん。」
この「今と変わらへん」の一言が強烈なパンチになって私の記憶に残ることになった。
戦中戦後といえば「欲しがりません。勝つまでは」のスローガンのもと物資が不足して社会生活も大変だった、というのが概ねの認識だった。
テレビのドラマやドキュメンタリ、新聞記事などでは常に悲惨な面だけが取り出されている。
しかし、それはもしかすると実際のそれとは大きくかけ離れてるのではないか。
「大塩平八郎の乱は特異な事件だから目を引く。あれには維新以降に『幕府の政策は市井の人々を苦しめた』と思ってもらうための謂わば印象操作の要素がある。実際、江戸時代、一揆や乱は少なかった」という歴史学者もいる。
そういう疑念を私に抱かせたのだ。
ちょうどこの伯父の話を聞く少し前に私は山本夏彦の「誰か「戦前」を知らないか」という新書を読んでいた。
山本夏彦といえば辛口の論客であったことが知られている。
その晩年のエッセイの中で「戦前、戦中のことがあたかも暗黒の時代のように伝えられているがそれは違う」ということが記されていたのが本書だった。
特に印象に残ったのは、東京が物不足に陥りメディアに描かれているような姿になるのは東京大空襲から。
しかも異悪期はたった数ヶ月だった。
それまでは例えば銀座資生堂では普通にメニューがあり、多少の不足はあったが普通に食事ができた。
というようなことが書かれていた。
当初「ホントかな」と思っていたのだが奇しくも実の伯父から東京ではないにしろ昭和20年前半の大阪堺市の街中の情景を直接聞くことになった。
それは真実なのであった。
俄に山本夏彦が著していた東京の風景が俄に真実として迫ってくることになってきたからだ。

このように家族をはじめ親類縁者やそれに次ぐ親しい者の体験による直接な口頭伝承はメディアやテキストを軽く凌駕する。
内容によっては、その大切な証言は家族だけではなく公のための重要な財産にもなる。
もちろんそういう証言の重要性は戦争体験だけではなく、阪神淡路大震災や東日本大震災のような大災害もまた然り。
それらを捻じ曲げずにどう残していくのか。

少なくとも先の大戦の話を聞ける残された時間はあと僅かしかない。

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