Members Column メンバーズコラム

「しずくのぼうけん」- みんなが大事に育て、紡いできたもの

平山知明 (ACCA Consulting Services)  Vol.650

関西ネットワークシステム(KNS)は今月6月14日に20回目の誕生日を迎えました。本当におめでとうございます。
また、6月17日開催の第74回定例会は、二次会も含めて大盛会でしたね。これも一重にみなさまのお陰であります。矢張り、KNSはリアル開催がその真骨頂であることを改めて実感した次第です。
遅くなりましたが、KNS世話人の一人の平山知明です。
さて、このコラムの読者諸氏には、既にお気付きの方も多いと思いますが、今月のメンバーズコラムは、KNS前夜からその立ち上げに深く関わってきた関西メンバーに執筆いただいております。
そんな中で何故か、今回は不肖私目が本コラムを書くことになっておりますが、このコラムの記念すべき第1回目(2010年2月3日掲載)も担当しておりますので、節目での登場ということでお許しくださいね。因みに今回で7回目の登場になります。
と言うことで、今回は、僕がどのようにKNSに関わることになったかを綴ってみようと思います。
先ず、2002年11月2日開催のINS in おおさか(於:くいだおれ)から話を始めましょうか。この会合に参加していた方の多くがその後、KNSに関わっているのですが、僕もこの会に参加していました。

このイベントに参加する切っ掛けは、当時、前職でベンチャー・創業支援、コミュニティビジネス・NPO等の調査なんかを仕事で担当していたのですが、一緒にそうした仕事を進めていた同期の友人から誘われて、時間もあったし、花巻市起業化支援センター(当時)の佐藤利雄さんが講演されると言うので参加したのでした。
当時、僕は佐藤さんに直接お会いしてメディアに出ていること以外についてお話を聞こうと画策していたのですが、岩手県は遠いという理由で調査出張が却下され悶々としながら、何とかお会いすることは出来ないかと考えていたところ、佐藤さんが来阪されると言うことで、この会に参加したのでした。ただ、実際には会場に着くのが遅れて、佐藤さんの講演に間に合わず、会場の前の方に陣取っている佐藤さんに、この会場では直接お話出来なかったのは、ここだけの話ですよ。
当日、到着が遅かったので、会場の入り口付近に席を用意していただいたのですが、後にKNSの活動でお会いすることになる山梨県庁(当時)の手塚伸さんにもここで初めてお会いしました。手塚さんも会場に遅れて到着し、偶々席が隣になったのです。(奇縁ですね。)
この会合の印象は、とにかく参加している人達の熱量がすごく、場所は大阪ミナミなのに三重県大阪事務所さんが受付を担当していたり、大阪以外からも多くの人が集まっており、参加者がみんな元気でザックバランで、そうした雰囲気が何とも羨ましく、凄いなというものでした。
そして、神戸、兵庫ではこんな感じの会合には参加したことないし、開催するのは少し無理だろうなと思いながら帰途に着いたのでした。
そして、それからしばらくしたある日(多分11月下旬)、当時のポートアイランド第2期にあった職場に、ある方から一本の運命の電話が架かってきたのでした。
正確には再現できませんが、こんな感じでしたでしょうか。
「どうも、ど〜のです。覚えてはりますか?
J R三ノ宮駅の2階のパブレストランで○○(前職絡みの内容なので伏せ字ね(汗))のお話を伺わせていただいたシス研(日本システム開発研究所)の堂野です。
先日のくいだおれのイベントに来られてましたね。
ところで、来月12月20日の夜は予定ありますか?もし、良ければ、大阪中之島の中央公会堂まで出て来られませんか?
19時から公会堂の地下にある会議室において関西における産官学の交流組織の立ち上げに向けた会合を開催しようとしています。イメージとしては、この間のくいだおれの会合みたいなものを関西でもやろうとしています。
この活動自体はボランティアベースのものなので無理強いすることは出来ないのですが、いかがですか?参加してみませんか?
急のお話なので、改めて、参加、不参加のご連絡をいただいても構いませんよ。」
KNSの世話人の一人である堂野智史さんからのKNS設立準備会への参加のお誘いの電話でした。
僕は「踏み出す一歩は自分自身でしか踏み出せない。踏み出すも留まるも自分の意思次第」と言うことをモットーにしており、人にも言っていますが、この時もこの考え方に従って、「分かりました。12月20日ですね。神戸から行くので少し遅れると思いますが、中之島の公会堂に伺わせていただきます。」と、堂野さんにほぼ即答したと思います。
堂野さんが飲み会の席などでお話されていますが、堂野さん・協働研究所の与那嶺学さん達が設立準備会を立ち上げるに当たって、大阪だけでなく、関西一円にメンバーを広く募ることを画策され、神戸方面のメンバーとして僕に白羽の矢が立ったと言うのは、後日知ることになりました。
堂野さんも与那嶺さんもこの電話をいただく以前に1度ずつ別々にお仕事でお会いしたことはあったのですが、その時はまさかその後こんなに長いお付き合いになるとは想像出来ませんでした。(本当ですよ。)
12月20日がやって来て、定時に職場を飛び出し、中之島の中央公会堂に向かいました。
定刻丁度くらいに会場に到着して、堂野さん、与那嶺さん以外に誰も知った顔のいない中、設立準備会発足会議に参加しました。本会の開催の趣旨などの説明など会議が進められていき、最後に23名の参加者が発起人になること、次回2003年2月に第1回設立準備会を開催することの確認が取られました。
この時点では、僕自身は、その後のKNSがどんなものになるのか全くイメージ出来ていなかったのですが、ここまで来ておきながら発起人を辞退するのは、自分のモットーにもとる行為ということで、発起人に名前を連ねました。
幕末維新期に諸藩の浪士たちが京都池田屋なんかで集結して討幕の議論を戦わせていたのもこんな感じだったのかなと思いながら、期待と不安を持って、この会議に参加していたのが、僕の当時の率直な感想でしょうか。
行政からの参加者が少なく心細い中、この会場で席が隣になったのが、後に一緒にKNSの世話人になる岩手県の小笠原徳さん、三重県の清水英彦さんでした。また、今月のコラムを執筆されている同じくKNS世話人としてご一緒させていただいた三宅さん、兼松先生に初めてご挨拶させていただいたのもこの会合でした。
その後、ずっと仲良くさせていただいているのは、本当にありがたい限りです。皆さん今は偉くなられましたが、まだ何者でもなかった当時が懐かしいですね。そして、みんな若かった。(当たり前ですけれど)
会議が終わり、会場の中之島公会堂を出て、「これって、面白そうなのだけれど、中身がよく分からないですね。どうなるのでしょうね。」と寒風の中、小笠原さん、清水さんと三人で駅に向かいながら、話をしたのは懐かしい思い出です。
その後、2003年2月14日に第1回設立準備会が開催され、その年の6月14日にKNSの正式設立と総会の開催へと繋がっていくのは、HPの設立の経緯をご覧いただければと思います。
昔話が長くなり過ぎましたので、この辺で筆を置こうと思います。
改めて、KNSとの関わりを振り返ってみて、「雨垂れのこの一滴の雫が川となり、海となり、やがて天からの恵みの雨となる」というポーランドの作家マリア・テルリコフスカの「しずくのぼうけん」という絵本のことを思い出しました。
KNSに関わるということは、ワクワクする冒険の旅への参加であり、積極的に参加することで、数多くの出会いが生まれ、色々な化学反応が自他ともに生じるから、何故だか辞められないですよね。
この冒険に最初から関わることが出来たことに感謝するともに、引き続き、皆さんと一緒にこの冒険の旅を続けて行こうと決意を新たにした次第です。

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