Members Column メンバーズコラム

京都昔話から語っておきたいこと

玉井恵里子 (株式会社タピエ代表・タピエスタイル企画・インテリアデザイナー/大学講師)  Vol.731

幼少期の頃を思い出すシーンがあります。
幼稚園から帰ると隣に暮らす祖母の家で「想像ごっこ」をして過ごすあの長い1日を。
絵本のページを開いては交互に高く積み重ねてお城を創りました。
おやつのマーブルチョコを広げて一粒一粒に王女や家来のお城の登場人物の役を割り当てて物語を作って遊ぶところが人形遊びに似ています。
違うのは物語の展開と共に家来が1人1人と消えていくのは結局わたしがチョコを食べてしまうからなのですが。
そんな浮世離れした夢想家の私を見ていて「この子は兄と違い勉強に向いてないにちがいない。せめて美意識を身につけさせたい」と
心配した母は私を京都岡崎の美術館や図書館に随分熱心に連れて回ったのです。
私は帰りに許されるジュースが楽しみで美術館通いが続けられ母心知らぬ呑気モノでした。

ところが折しもその頃は「具体美術」が京都でも花開いていた時代でした。
具体美術協会とは、芦屋で1954年に結成され、1972年、オーガナイザーである吉原治良 氏(1905~1972) の死去により幕をとじた、美術実験集団。
日本における初の前衛的アーティスト集団でした。
それまで絵本の童話の世界にだけ生きていた私にとって「具体美術」はイリュージョンな世界でした。
幼心にも子供が見てはいけないのではと思い母をチラ見していたのを記憶しています。
母がどう思っていたかは未だに分からないままですが、それほど前衛アートは子供にとって刺激的で時には過激な表現も含まれていました。

オノ・ヨーコが1965年にニューヨークのカーネギーホールで発表した作品「カット・ピース」の記録映像を見たのも同じ美術館でした。
舞台に座るオノヨーコの衣服を観客がハサミを入れて切り取っていくというショッキングなパフォーマンスで「女性への暴力や抑圧」がテーマとなった作品ですが子供には真に強烈パンチでした。現代美術の洗礼を受けたのでした。

京都は「伝統と格式」を重んじる古都のイメージが強いでしょうか?私から見ると「伝統と革新」の町です。
最先端の良いと思われる「モノ、ヒト、コト」をいち早く受け入れる気質があると思います。
伝統と格式を非常に大切にする一方でアバンギャルドなどの多様性も昔から寛容に共存出来る町でした。

理由として京都人の「モダン好み」は歴史的な困難が色々と影響しているとも考えています。
例として明治二年(1869年)明治政府は東京に都を移しましたが、京都市民にとり京都が「みやこ」でなくなるという大事件でした。
京都の商業の繁栄はそれまで天皇と御所を中心とした社会でしたから京都経済は疲弊、困窮するほど大きなダメージを受けてしまいました。
そこで京都経済を立て直すために明治28年に京都市岡崎公園で「第4回内国勧業博覧会」を開催しました。
岡崎の敷地の大部分がかつて「博覧会会場」に使われたこと、平安神宮に通じるシンボルである赤い大鳥居も昭和3年に市民より寄付を募って建造した新しいものと知った時は驚きました。
京の凱旋門とも呼べるあの大鳥居はクラウドファウンディングの先駆けで、京都市民が威信を賭けた建造物で集客に繋げています。

考察していくと「京都」とは実は京都人の気骨によって理想の「京都」にあらしめられる町なのだと思ったりもします。
一早く最先端の流行も潔く受け入れ組み合わせ、京都に輝きを取り戻さす努力を重ねて生き延びてきた町とも言えるのではないでしょうか?
没落も経験し返り咲こうとした先人の知恵と意地を感じます。
だからかもしれないですが京都には未だに「天皇さんは東京に行かれて京都を留守にされている」と真顔で仰せになる長老がおられるのも本当です。
史実を知ると決して単純に笑えないです。

さて、母のおかげか私は自然と京都の美大で日本絵画を学ぶ道を辿り、しかし絵の世界には進まず、卒業後インテリアの世界に飛び込み、就職をきっかけに大阪、東京に移り住むことになります。
京都の町にいると「叶わない」何か目に見えない閉塞感を感じもがいていた若い頃でした。

転機は大阪に就職したいきなり初日です。大阪人のオープンでフレンドリーな接し方に盆地から出たことのなかった私はすごくカルチャーショックを受けました。会話のテンポが早い、笑いのオチがセンスの見せどころ。おおらかでとても優しい。気前はとても良いが反対に見栄を張らない。
「ぼちぼちでんな」と謙虚にサラリと交わし相手をリラックスさせてくれます。

大阪と京都は隣の都市なのにひとの雰囲気が随分と異なるのです。
大阪の上方文化は古くから交易や商いが盛ん。経済が発展してきました。
商い交渉の習慣からひととの上手な付き合い方、能動的な会話力が洗練されています。
おそらくDNAまでそのユーモア才能は刻まれていそうです。
京料理も元々は上方料理で、京都人が大阪で学び京都で成熟させたと書物で読みました。
京都を代表する茶の湯で有名な千利休も堺出身です。
クリエイティブな空気も、ミナミを中心にあの当時はデザイン業界の活気がすごかったです。

毎日が楽しく新鮮でしたが、その後東京転勤し10年間同じ会社の勤務を経たのち独立。
デザイン事務所タピエを立ち上げて25年以上になりますが振り返るとあっという間の日々でした。
京都が私の根っこの部分と感性を育ててくれたのだと思います。
大阪が私をのびのび後押し仕事人として育ててくれたと思います。
東京が私の夢を具体的なかたちに育ててくれたと思います。
世界中で出会ってきた友人も皆良き恩人たちです。
環境はひとを創るというのは本当で、教えや影響を授けてくださいました方を思い出します。
タピエスタイルも、不器用な私一人ではなにひとつ成し得なかったと、今になり本当に良くわかり支えてくれた歴代のスタッフに感謝が尽きません。

人生は冒険に満ちています。誤解を恐れずに語るなら「仕事は人生最高の趣味」です。
これからの人生はサイズダウンして初心に戻り、熟成して小さく輝くような仕事でお役に立ち続けたいと望みます。
ずっとものづくりや、人の手によってつくられたものに変わらず一番の魅力を感じていて建築やインテリアといった空間から、小さなクラフトやアート作品まで私の中では同じ探求ライン上に位置します。
数多くの旅も経験を重ねこれからまとめてみたいです。
最近興味が増してきたのは自然、動物、鳥、植物への関心です。
古代の人々の暮らしや装束についても地道に研究を続けています。

最後に会社の屋号「タピエ」も日本の「具体美術」を初めて世界に紹介したパリのキュレーター
ミシェル・タピエの精神にオマージュし、ヒントにさせていただいたことを記述します。

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