Members Column メンバーズコラム
私の道は国際交流と友
國吉哲久 (公益財団法人 大阪国際交流センター) Vol.167
あなたにめぐり逢えて本当によかった。
一人でもいい、心からそう言ってくれる人があれば。
~相田みつを~
1972年5月15日、沖縄が返還されました。「琉球列島米国民政府」と書かれたパスポートを母と1歳になる弟と3人で日本に入国したのが1972年3月8日、返還の約2ヶ月前です。沖縄はドルを使用し、道は左側通行、食物は米軍関連の缶詰が多く、当時4歳頃であってもすごく記憶に残っています。今、ご縁あって国際交流のお仕事に就き、日々日本におられる外国人の方々のサポートなどをさせて頂いておりますが、偶然とは思えないと感じております。
私の生まれが米軍占領化の沖縄であったり、12歳の時には現在の独立行政法人日本学生支援機構の前身である(財)関西国際学友会が地元大阪市北区の扇町にあり、そこに滞在する外国人留学生の日本語の会話相手を4年余りボランティアで行っていて自分がなぜか外国人に縁があると感じ始めていました。現在、独立行政法人日本学生支援機構の学生さんと縁ある仕事をさせて頂いております。12歳の頃に出逢ったタイ人の方とはFacebookで再会しました。その後、偶然?1999年駐在員となり米国に渡ります。今では友人も米国はもちろんの事、中国、モンゴル、タイ、台湾、韓国、イギリス、ロシア、サウジアラビア、トルコ、フィリピン、インドネシア等など書ききれない程です。これらの事柄が自分に何か導かれる意味は何だろうと考えることがよくあります。しかし、考えれば考えるほど、無駄だと感じています。なぜかというと、私がどう考えようがその道がひかれていて、私は今の彼らとそして、今から出逢うであろう未来の「友」と出逢うべきして出逢っていると考えるのが自然なのだろうと思います。過去にめぐり逢った人も、今、出逢っている人も、これから出逢う人も、また会うのが楽しみでなりませんし、その方々が私の日本の友人たちに紹介することも嬉しくてたまりません。
話は少し変わりますが、米国に滞在中に第2次世界大戦時の日系人第442部隊の生き残りの方々と話すことがありました。米国の為に志願兵になりヨーロッパ戦線の激戦で亡くなられた人がいっぱいいて、米軍として戦ったが、それは日本人の血と誇りがそうさせたと目に涙を浮かべておっしゃっていました。その方は私にこう最後に言いました「あなたがその事を日本の皆さんに伝えてほしい」と。ここに書く事が出来て少し伝えられた事も幸せです。私も日本人として誇りある気持ちを忘れず、心ある国際交流を、日本と世界の友と共に生きて行きたいと感じております。
『あなたにめぐり逢えて本当によかった。一人でもいい、心からそう言ってくれる人があれば。~相田みつを~』そう言っていただけるように一日一日、お一人お一人の世界をつないでゆきたいと日々考えて無国籍民間大使として、国際交流を手段として平和に繋げられる企画や出逢いを「一人でもいいから」演出できたらと願っております。