Activity Report 活動報告

【関東支部】ミニ井戸端会議Vol.50「大熊さんを偲ぶ会vol.2 in関東」
長年KNS支部世話人であった大熊謙治さんが2022年12月にお亡くなりになりました。
2024年12月20日(金)関西大学梅田キャンパスでの追悼に引き続き、
2025年2月2日(日)住友生命「Vitality」プラザ 銀座Flagship店で、大熊さんにたいへんお世話になった関東支部として、ミニ井戸端会議・偲ぶ会を開催しました。親交のあった方々から、話題提供として思い出話をいただき、終了後は黒松屋 日比谷店で明るく飲んで騒いで、思い出を語り合いました。
参加できなかった方も含めてご了解を得て、追悼のコメントを掲載させていただきます。
阿部 伸彦 様
「阿部さん、東京に転勤されるなら」と本部世話人の領家さんからご紹介いただいたのが2019年3月のATCでの定例会。「4月から17年ぶりの東京勤務になるのでよろしくお願いします」と初めて大熊さんとお話ししたその時でした。
その後5月に開催された【関東支部】ミニ井戸端会議に関東支部のメンバーとして初めて参加、久しぶりの東京&初めての単身赴任生活で不安いっぱいの私をいつものとても優しい笑顔で迎えてくださりました。翌6月にもご案内いただき、参加した際になにかのきっかけで「世話人」にご推薦いただき・・
ミニ井戸端会議を毎月定期的に開催されていること、東京大学で地方大会を計画されていることをお聞きして、本当に私に務まるのかと随分悩みましたが、その時も大熊さんの優しい笑顔で。
仕事に東京に世話人にまだ慣れていなかったこともあり、東大では当日の運営のお手伝いしかできなかっこと、大熊さんとご一緒できなかったことがとても心残りです。
大熊さんが形にされ、大事にされてきた関東支部、微力ではございますが、皆さまと力を合わせてこれからも楽しみたいと思います。本当にありがとうございました。
荒川一聡 様
大熊さんからミニ井戸端会議へのご案内メールをいただき、繰り返しお誘いのメールを頂戴し、いつも開催ギリギリまでご返事ができず、当日参加申込もしたこともあり、ご迷惑ばかりお掛けしていましたが、いつもにこやかに迎え入れていただけたことが忘れられません。KNS関東支部をいつまでも見守ってください。
神山 弓子 様
大熊さんが教えてくださった麻賀多神社は私の崇敬神社となっております。石巻銀座復興バーに奥様といらして下さいましたね。きっと天国でも誰からも愛される癒し系の存在として人気者でらっしゃると思います。どうぞ平らけく安らけく私たちをお見守り下さい。
川端 政子 様
12年前にイベントにご参加いただきそれからご無沙汰してしまっておりましたが、この度の訃報のご連絡をいただき懐かしく思い出しました。
故人のお人柄を偲びつつ、ご冥福をお祈りいたします。
金 桂紅 様
初めて関東のKNSに参加した際に誰も知らなく、大変心細かったですが、大熊さんが親切に接してください、大変ありがたかったです。その後も何回か関東のKNSでお会いしたことがありますが、いつも優しい方で、関東のKNSも大変心地良く感じました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。
斉藤 俊幸 様
私は大学を卒業しやりたいことが見つからず茫然としていましたが、しかし最初の仕事は財団法人日本システム開発研究所(シス研)のバイトでした。当時虎ノ門にあったシス研で“ロールトレぺ”にサインペンで描かれた本四架橋の3コース案を見て、シンクタンクはやりがいのある仕事だと憧れました。その後、シス研にいた私の担当者が世界銀行のプロジェクトでコスタリカに行くことになり、私もバイトで稼いだおカネを握りしめ自費でついてゆくことにしました。日本立地センターと日本工営のJVの研究プロジェクトに1年間お世話になりました。帰国後26歳でコンサルタント会社を起業しました。シス研の部長に文章の書き方を教えていただき、やっと文章みたいなものが書けるようになった頃にシス研での徹夜が始まりました。そこにいたのが大熊さんでした。大熊さんと私のみが研究室にいて無言でそれぞれの仕事していたのを覚えています。研究部が違うこともあり立場も違うので大熊さんとは何も話さなかったです。その後、堂野さんが大学院を卒業し、シス研に入ってきます。そしてKNSを創設しての大活躍。堂野さんの縁で大熊さんと再び出会うことになったのです。私の20代はシス研なしに語れません。そしてそれを知っているのが大熊さんでした。大熊さんが亡くなり、20代を語り合える友人を失い、まことに残念です。この思い出は私の小さな心の箱に収め大切にしようと思います。
櫻井 亨 様
大熊さんは隣の町内にお住まいで、お会いした際、近所で呑みましょう。とお話しされていました。本当に残念です。心よりお悔やみ申し上げます。 合掌
鈴木 勝美 様
大熊さん 優秀だけど、どこか抜けているところがとてもチャーミングで大好きでした。もうお会い出来ないのはとても残念です。ご冥福をお祈りすると同時に、これからチャレンジする私の夢を応援して下さい!
長坂 泰之 様
関東支部時代に大熊さんと密にやりとりをしたのが、2017年10月から2019年3月までの約1年半でした。主に、ミニ井戸端会議の設定で、講師の選定や場所の確保で毎月のようにやりとりをしていました。私が忙しくて対応できない時には、「忙しい時はお互い様です」と言いながら何度となくフォローしていただきました。今から考えると大熊さんに頼りっきりだったと反省します。まさに大熊さんあっての関東支部で、東京大学での大会に参加していただけなかったことが本当に残念でした。優しい笑顔の大熊さんに、天国に行けたらお会いしたいです。
中村 稔 様
大熊さんの思い出で最も印象的なことは、いつも笑顔でにこやかに接して頂いたことです。
KNSの井戸端会議を始めとする様々な会合の中で、時には白熱した議論にもなったりしますが、大熊さんが醸し出される柔らかな空気によって、いつも良い雰囲気が生まれていたことを思い出します。
こうした大熊さんのご人徳に改めて敬意と感謝の念を表する次第です。心からご冥福をお祈りしております。
KNSエリアサポーター
西出 徹雄 様
2025.2.2
大熊謙治さんの思い出
西出徹雄(元経済産業省)
大熊謙治さんが2022 年12 月に亡くなられてから2年余り経ちますが、いつでも穏やかな笑みを湛えた表情が忘れられません。KNS の創立世話人のお一人であり、関東支部は大熊さんがいらしたからこそ成立していたようなところがあり、大熊さんが亡くなられた穴は他のメンバーでは簡単に埋められないほどの存在だったことを改めて感じています。声高に話すようなことはありませんでしたが、シンクタンクの研究員として産学官民それぞれに幅広いネットワークをお持ちで、亡くなる前まで色々な組織に属して活動されていらし
たので、KNS にとって、とりわけ関東支部にとっては掛け替えのない世話人であり、年齢的にも今の時代からすれば余りにも早い旅立ちが残念でなりません。
大熊さんに最初にお会いしたのは、2002 年の夏の広島でした。私が中国経済産業局に赴任して間もない頃で、広島の秋葉市⾧( 当時)が翌年に選挙を控えて市の科学技術政策大綱を作る委員会のメンバーとして出席したところ、その事務局が財団法人日本システム開発研究所で、大熊さんと堂野智史さんが委員会の運営を担っておられました。当時の名刺を見ると、大熊さんは技術開発研究室⾧・ 主任研究員、オフィスは東京都新宿区富久町(余計なことですが、富久町は私が生まれて小学6年まで住んでいたところです)、堂野さんは同研究所大阪事務所の副室⾧・ 副主任研究員となっています。
第1 回の委員会は2002 年8 月27 日で、翌年3月くらいまでに何回か委員会が開かれ、報告書をまとめたのだと思いますが、委員会の度に大熊さんと堂野さんが事務局として毎回広島に来られていました。
後から知ったことですが、KNS の創立世話人になる人たちは組織をどのように立ち上げるかを議論していた時期だったようで、基本的なルールが固まっていく時期に当たります。
当時の経済産業省は地方活性化政策として産業クラスター計画や産学官連携の推進に力を入れていましたが、足元では道州制の導入と国の出先機関の廃止論があり、国家公務員倫理
法の施行もあって官民の関係が疎遠になりつつあるように感じていました。経済産業局の在り方に危機感を持ち、地域に根差した産業行政の基盤になる地域の方々とのネットワークをどのように作ることができるかが課題と認識し、試行錯誤として挑戦したのが「広島5:01クラブ」でした。従来からのしがらみにとらわれず、肩書を外した個人として偉い人もそうでない人も自由に交流する場を作ろうとして、2003 年1月から毎月交流会を始めました。
フラットな立場でのネットワーク作りという意味ではKNS と同じ考えで、広島市の委員会が終了した後、大熊さん、堂野さんにも交流会に参加してもらい、私もKNS の第2回の定
例会で広島の様子を報告させてもらいました。
私の広島勤務は2004 年の夏で終わり、東京に戻ってからはKNS の定例会には余り多い頻度では参加できず、関東支部の井戸端会議にもたまに参加する程度でした。大熊さんは色々な組織に属しておられ、健康・生きがい開発財団の調査・研究部⾧をされたり、国連のUNIDO 東京事務所のコンサルタントをされていたり、私たちの知るより遥かに広い範囲で活動さ
れていたと思います。日本システム開発研究所は旧大蔵省、健康・生きがい健康開発財団は厚生労働省、UNIDO や研究産業協会は旧通産省など国の省庁とも広く関係を持ち、その繋がりの中から井戸端会議の話題提供者も呼んでいらしたのかもしれません。
大熊さんと個人的な話はあまりしませんでしたが、クラシック音楽は大変お好きなようで、ヴァイオリンの諏訪内晶子の 「追っかけ」を自認されていました。実際コンサートにはよく行かれていたようで、私が2018 年夏にルツェルン音楽祭に行った時の話で、指揮者のベルナルド・ハイテ
ィンクのことを話すと、そのあと亡くなられたので、もう日本ではハイティンクの演奏は聴けないとおっしゃるなど、音楽情報にも詳しく、お元気ならもっと色々なお話ができたのでしょう。
今となってはとても残念です。
関東支部の集まりでは会費徴収の関係からか会場探しに苦労されていて、定期的な集まりを持つのが難しいとうかがい、それならば中小機構の会議室に加えて、当時私の勤めていた財団法人の
会議室を使って、毎月は難しいかもしれないけれども隔月くらいに継続して井戸端会議を開こうということになりました。安定的に開催が続くと年度計画を議論することになり、個人的には何か大きいイベントをするのが支部の活性化とネットワークを広げるのに良いのではないかと考え、少し前に京都大学で開いた定例会が関西の方々に好評だったと聞いていたので、東京大学でKNS の地方大会を開くことを提案してみました。残念ながらこの時は全く賛同が得られず、この企画には蓋をしておくことにしました。ところが、一旦消えたと思っていたこの企画を2019 年の活動計画案に大熊さんが書き込んでいたのです。大熊さんは東京大学の生産技術研究所にいらしたことがあるので、東大で何らかのイベントを開くことに関心を持っていてくれたのでしょう。しかし、関東支部の少ないメンバーだけでできることではないので、堂野さんはじめ世話人の方々の考えも大熊さんから確認してもらってから、本格的に準備を進めることにしました。
さて、本格的準備作業に入る前に、実現可能性を探るべく非公式に東大の産学協創推進本部の知人に感触を聞いてみると、予想はしていましたが、正面から共催でのイベントとして開催するのはかなりハードルが高いとのことでした。それなら別ルートでと、6月の雨の降りしきる日に、大熊さんと2人で本郷キャンパスへ旧知の大久保達也工学部⾧(当時)に協力のお願いにうかがいました。大久保先生の話では工学部の中に社会連携・ 産学協創推進室を作ったので、そこと連携したプログラムならば協力できると約束してくださり、その場で日程は11 月9日とし、会場懇親会の会場の仮予約まで一気に決めるところまで話が進みました。本部世話人の方々にも了解していただき、あとは工学部の中で正式の了解が取れ次第、具体的なプログラムの検討を事務方士で進めることになりました。そしていよいよ大熊さん中心に東大での地方大会の中身を詰めようという正にその時に、大熊さんが倒れたという知らせが飛び込んできました。計画は既に動きだしており、日程も決まり東大側でも準備態勢を整えているので、関東支部としても引き返すことはできません。ともかく阿部伸彦さん、村上晴美さんを中心に走り続け、当日は堂野さん、領家誠さん、吉田雅彦さん、奥田三枝子さん、⾧坂泰之さんほか関西からの皆さんの強力な支援の下、本郷キャンパスの工学部2 号館を会場に100 人を越える参加者を得て充実した会議を開くことができました。
しかもこの会議がKNS にとっては第1000 回目に当たる記念する回にもなりました。このKNS in 東京大学の主役は大熊さんだったはずで、それができなかったことが何とも悔やま
れます。大熊さんが入院先で意識が戻られてから結果の報告にうかがいましたが、大熊さん抜きでの開催が残念で、ご本人もそれを感じておられたと思います。
最後に、私にとっての大熊さんのもう一つの顔は、日本の技術開発についての調査研究です。2005 年6 月にまとめられた報告書をいただきましたが、戦後日本で発明された7つの独創的産業技術について開発者から直接インタビューして、発明、商品化に至る詳細を記録した貴重なものです。半導体製造装置、超極細繊維、ネオジウム磁石など現在に至るまで大きな影響をもつ製品や材料の発明や開発がどのようにして行われたか、その実態はいずれも計画して計画通り直線的に進んだものではなく、失敗の連続であったり、開発の中止を命じられたがアンダーグラウンドで密かに進められた結果であったり、当初想定された用途ではないところに大きな需要が見つかった結果であったり、開発者本人からのインタビューでしかわからない貴重な情報がたくさん含まれています。大熊さんはインタビューに立ち合い、全てを詳細に記録し、最後にエピローグとして感想を記しています。この報告書を読むと各インタビューをまとめるのは大変な時間と労力を要したと思われますが、大熊さんはその意義を理解し、むしろ楽しんでこの作業をされていたのではないかとさえ思われます。これら開発者の生の声は、技術経営やイノベーションを論ずる上での貴重な一次情報として残っていくことでしょう。
大熊さん、どうぞお好きだったクラシック音楽楽しみながら、いつまでもKNS の活動を高いところから見守っていてください。
(参考)
報告書に収録された7つの独創的産業技術
・半導体製造装置ステッパの開発と半導体産業の国際競争力向上への寄与
・焼酎用優良種麴及び自動製麹装置の開発
・超極細繊維の世界を拓いた スエード調人工皮革エクセーヌの研究開発
・高密度波⾧分割多重方式(DWDM)ブロードバンド時代を支える基礎技術の開発
・世界最強のNdFeB 磁石の発明とその工業化
・国産自動販売機第1号の開発
・コンクリート構造物の革新的品質向上技術の開発
安永 裕幸 様
UNIDO コンサルタント 国際連合工業開発機関(UNIDO)事務次長
故大熊謙治さんのこと
ああ、もう大熊さんがお亡くなりになられてから 4 年近くが経つのか・・・・。通産省時代の上司である西出先輩からご連絡をいただき、これは是非追悼文を書かねば、と思いたった次第です。
私が UNIDO(国連工業開発機関:United Nations Industrial Development Organization)の東京事務所長に着任したのが 2017 年の 8 月 1 日のことでした。役所からの出向でしたが、年齢的にも片道切符は分かっていましたので、「多少のリスクはあってもオリジナリティのある、これまで人がやっていないことをじっくり腰を据えてやるチャンスだ」と思いました。
既に UNIDO 東京事務所では、「環境技術データベース」という事業を開始しており、主に中小企業の有する環境や省エネ分野の技術(既に市販されている技術および、最低限、ユーザの求めに応じてサンプルを提供できる技術に限定)を審査し、Web で紹介していましたが、所員は文科系の人間が多く、審査プロセスも率直に言ってやや心許ないものでした。
そこで、私は大熊さんと相談し、数か月かけて大学教員や産総研の研究者に審査委員をお願いするとともに、「食品製造技術」や「医療用品(ただし、薬事法上厳格な審査を要するものを除き、かつ、主に家庭で使用できるものに限定)」等にも守備範囲を広げ、中小企業からの提案を募ることとした訳です。
やや心配顔の所員をよそに、大熊さんは我々所員とともにてきぱきと提案書を審査し(それまで所員には無縁であった特許の明細書も分担して分析しました)、審査プロセスを確定しました。これは現在 UNIDO 東京事務所の STePP(Sustainable Technology Promotion Platform)として、同所
の主要な「売り物」の一つとなっています。
大熊さんが倒れられたという連絡をいただいたのは丁度コロナ禍のただ中でした。お見舞いにも行けず、また、ご家族にもご迷惑をかけてはいけない、という(今となっては)過度の忖度で、お目にかかれぬうちに逝ってしまわれたのは残念でなりません。
こういう機会を頂戴しましたので、改めて大熊さんのご冥福をお祈りするとともに、彼をご存じの方々とともにご遺徳を偲びたいと考えます。
大熊さん、天国で安らかに。
吉田 雅彦 様
大熊さんが大切にしてきたKNS関東支部を、これからも楽しみます^_^